『神椿市建設中。REGENERATE』は、2025年3月12日に発売されたテキストアドベンチャーゲームだ。
発売元は株式会社THINKRの一部門である「神椿物語研究開発部」である。
同社は、インターネット上で歌手をスカウトし、場合によりアバターや設定を加えてプロデュースするレーベル「KAMITSUBAKI STUDIO」を運営している。KAMITSUBAKI STUDIOとしては、アーティストの音楽面のプロデュースだけではなく、ファンに向けた謎解きイベントやゲーム、配信等のコンテンツ制作・提供も行っている。
「神椿市建設中。」と名のつくコンテンツはすでにオンライン謎解きゲーム、ボードゲームなどで提供されていて、それらが基本的なキャラクター設定や物語の筋書きを提供していた。その設定群を一部引き継ぎ、ノベルゲームとして発展させたのが今回の『神椿市建設中。REGENERATE』である。
非常に文脈が入り組んでいるが、まあそれ以前の作品について何も知らなくても、神椿のアーティストや音楽を知らなくても物語を楽しむのに支障はない。
全体的な印象
新世代のファンタジー入門として、非常に完成度が高い作品であると感じた。
私はゼロ年代からここ数十年の様々な長編名作漫画やアニメを見てしまったので、どうしてもその作品名が頭にチラつく瞬間は多かった。しかし、この物語を若くして受容する10代、20代の人達は、過去の作品とは無関係に衝撃を受け、夢中になるに違いないと感じる。そして本作の次に過去の名作と出会って、「これは『神椿市』で見たやつだ!」となるのだと思う。
多くのプレイヤーにとって、作品同士の影響関係は受容の順番に過ぎない。あれのパクリだとか、どれが起源だとか、ほとんどの人にとってはどうでもいいことだ。
それでも、以下では野暮ながらリンクを貼っておく。
即ネタバレが始まるため、プレイ予定の人・ネタバレを踏みたくない人はここで中断してほしい。ちなみに私がクリアまでにかかった時間は20~25時間程度だ(途中、放置時間が入っているかもしれない)。
ループと繰り返しが強くする能力
主人公の空虚さや魔術に関する説明の口調などは『Fate/Stay Night』、あるいは『CHAOS;HEAD』を強く感じさせたし、ループと記憶保持、繰り返しが強くする能力等に関しては過去のノベルゲーム、直近の有名どころでは『STEINS;GATE』、『まどか☆マギカ』を参照しているだろう(まどマギに関しては、絶望した少女が怪物に変貌するという設定もそうだ)。
しかし、『神椿市』はループ物語という類型に新たな解釈を付け加えるものだったと思う。「多世界解釈」や「世界線」とは別の仕方で、時間を巻き戻すことなくループを可能にするアイデアは珍しいものだ。これは大きなネタバレにもなるので、ぜひプレイによって真相を確かめてほしい。
壁に閉ざされた世界と喰われる人々
また、本作の神椿市は外部と隔絶されており、一定の限界の中で市民たちが暮らしている。放射線の脅威があり、街の外に行くことが規制されている。この状況は、東日本大震災(原発事故)やコロナ禍、首都に行けない若者たち等、ここ20年程のさまざまな人の閉塞感をまとめあげるような設定群だと感じた。
外部の脅威とそれを防ぎつつ閉じ込める「壁」の存在は、否が応にも『進撃の巨人』の世界を思わせる。人が喰われるという視覚的にハードな表現も、進撃以来の潮流に乗っている。
第4の壁の超越とメタ物語
いわゆる「第4の壁」を超えるメタ物語を有しているのも本作の大きな特徴だ。ボタンを押したり画面に触れたりするプレイヤーのゲーム関与が、メタ物語としてそのまま意味をもつように設計されている。時間制限の付いた選択肢や、話しかける相手を選べる場面はその代表例だろう。この手のギミックについて、ルート分岐以外の意味があると思えるゲームは久々だ。
戦闘パートはリズムゲームとして挿入されているが、難易度が低めなこともありプレイの障害には感じなかった。むしろ楽しいと思えたところもある。本作では戦闘を支援している者の歌がそのままBGMとなる場面がたびたびあるのだが、これはRPGでは珍しくない演出方法だ。そういった歌入りの演出が好きな人には最高に嬉しいポイントだろう。
以下では個別の章の印象について簡潔に記し、印象的だった一場面を紹介して終わろう。
序章(化歩√)
基本的な世界設定と魔法、テセラクターについて解説される。何よりあの衝撃的な死には驚かされた。進撃1話みがある。
谷置狸眼√
機能不全家庭や、一昔前のトー横界隈などがテーマになっていたのだろうか。少年の猟奇殺人鬼というのは酒鬼薔薇事件などを思わせるところがある。登場人物が少なく、陰鬱な雰囲気が強い。一回目にやるのはおすすめしないかもしれない。
この√はかなり凄惨に人が殺されるが、それだけ「命の戻らなさ」を強調する内容でもあった。魔法は人を生き返らせることには使えないどころか、命は一度壊れたらもう戻らないと強調される。これは後のルートの伏線でもある。この物語にループはあるが、「蘇生」を目の当たりにした者は(観測者側以外には)存在していない。時間は前にしか進まないことがこの世界のルールだ。
朝主派流√
登場人物や派閥が多く、わちゃわちゃして楽しい雰囲気のあるルート。最初に選ぶならおすすめできる。
複数勢力の思惑が絡む話をここまでコンパクトに纏めた手腕は素直にすごい。荒っぽいシーンやスピーディな戦闘描写、任侠ものの要素など、男性向け漫画みたいな部分が強い。いわゆる燃える展開も多いが、あまり私がノベルゲーに求めている部分ではなかったかもしれない。
シャーマニズムと、テキヤ=神農を絡めてくるのは普通に勉強になった。このあたりの伝統を紹介する若者向け作品って珍しくないだろうか? なんちゃってヤクザの出てくる恋愛ものは無限にあるのに……
夜河世界√
古の人間にとって世界というとあのキャラクターしか思い浮かばないが、新しい世代にとってはこちらが第一義になるのかなと思いもした。
教団はずっとオウム真理教とかを意識させるけれども、善意でやってますという点から緩やかに加害性を強調してくのは自然で上手い。宗教批判の部分もある。
物語の内容的には整合的だし、他の物語と同じく遺産継承という主題が結構強めだったと思う。
亜留、阿栖に疑われるところは緊迫感があったが全体的には落ち着いていた√だった。世界だけ衣装4・魔法3つなのはなんか優遇されてるような…
颯の喋りには、厭世的かつ(良い意味で)シニカルな落ち着きがあり、とても良いと思った。
颯「ご覧の通りですよ。 人間の姿をしていても、
正体はヒトとは限らない」颯「一皮むけば、中に怪物が潜んでいるのは、
貴方がた人間も同じですが」(世界の章12 やさしいせかい)
ハハハ。
輪廻此処√
この√の中では完全に明かされない事実が多すぎるため、正直これだけで評価するのは難しい。ただ、プレイヤーを依然として驚かせてやろう、飽きさせずに進めさせようとの工夫は随所に感じられた。
時間航行者か? とか、ボスは誰なんだ? などの予想はだいたい立つものの、それでも意外な答えが与えられる。
化歩√再
怒涛の伏線回収開始、そして第4の壁の侵食。
それまで恋愛シミュレーションゲームっぽいやり取りをしてきたキャラクター達がかなり大変な扱いを受けるのでなかなか衝撃的だし、それぞれの演者である花譜たちバーチャルシンガーのファンは怒ったりしないのだろうかと余計な心配をしてしまう。
花譜たちバーチャルシンガーと、あくまで本作の登場キャラクターは別の存在だとされているにもかかわらず。グラフィックと声の、人格化する力は本当に強い。
次の自分へと望みを託すところはシュタゲの転送シーンに通じているなと思う。
真章
「使い魔」という新要素(これも90~00年代に流行があった)をここにきて加えてくる野心には脱帽する。また、メタ物語に関係する新たな事実が判明するのもこの章からだ。
すべては電脳空間の中での演算がもたらした出来事であるというのは、キャラクターたちを自己言及的に示した言葉でもあるし、現実世界からネット上の存在として生まれ変わり、肩書やデータベース的な属性を与えられた神椿のアーティスト達の人生の寓意でもあるだろう。
自らが電子上のシミュレーションに過ぎないことを認識した「5人の少年」の中には、現実世界へとたどり着きたいと強く願う者もいた。現世の生を無価値なものとして否定する、あねもすもその一体であった。彼は現世を脱出し現実世界に至るために、神椿市の住人を殺し吸収し続け、魔女の娘たちと対立してきた。
世界
「……あねもす。あなたはノアの望み通り、
滅びた現実世界を再生できたら、その後はどうするつもり?」あねもす
《まだ考えてはおりません。
ですがそれより優先すべきは、まずこの箱庭を脱する事です》あねもす
《この仮想世界は全て造り物で、わたくし自身もまた偽物でした》あねもす
《創られた肉体、周囲を欺く生涯、幾度死しても蘇る命……
その全てが虚しい幻に過ぎない》あねもす
《しかし現実世界を目指すという願いだけは、本物だった。
紛れもなく自分自身の意志だった》あねもす
《わたくしはその想いを、真なるものとしたかった……!
そのためにずっと、歩み続けてきたのです》真章 玖「欲望」
しかし、あねもすに世界は次のように説く。
世界
「そう……だけどその先には、哀しい未来が待ち受けている」世界
「だって現実世界には、あなたたちテセラクターを
待っている人なんか、誰一人いない」世界
「そこにあなたの居場所はない……人と異なる怪物として、
忌み嫌われて狩られるだけ」あねもす
《な……!》
世界ちゃんが初めて吐いた『毒』に、あねもすが口をつぐんだ。
彼女はさらに続ける。
世界
「残念だけど、わたしにはその未来しか見えない……
あねもすだけじゃない、あぐにも同じ」世界
「隣の世界がどれだけ美しく見えても、
そこには醜いものも必ずある。
この神椿市がそうだったように」(同前)
あねもすはこの世界は虚しい幻であり、脱出が必要だと主張する。しかし、彼がこのように自分のいる世界を脱出しなくてはならないと思うのは、それが幻だからではなくて、まず自らにとって気に入らない、不愉快な出来事が多いと感じられるからではないのだろうか。幻かそうでないかは、その世界に対する不愉快さをまるで世界の根本的な欠陥であるように語るための材料ではないのだろうか。
考えてみれば、幻ではない別の世界が自分にとって快適である保証など何一つないのだ(不愉快だという保証もないが)。彼らは今いる世界以外に出たことはないのだから。
これは、苦痛が多すぎるこの世界を捨ててあの世へと実際に跳んでしまおうという、自殺企図的な想像への戒めと取れるかもしれない。
脱出は救いではない。では何が救いなのだろうか? そもそも、偽物か本物かとはどういうことなのだろうか? 非常に長くなるが、再び引用しよう。
(中略)
世界
「ねぇ、あねもす。望むと望まざるとに関わらず、
わたしたちはこの仮想世界で生まれた」世界
「たとえ虚構の箱庭だとしても、
そこで過ごした日々は本物だった」世界
「今まで歩んできた道も、手に入れた想い出も、
決して偽物なんかじゃない。誰にもそんなこと言わせない」世界
「わたしにとっては、ここが『現実』……
だけどあなたも、そうなんじゃない?」あねもす
《……!》世界
「自分が偽物が本物かなんて、他人が決めることじゃない」世界
「住む世界を変えなくたって、わたしたちはきっと本物になれる。
自分に嘘をつかないで、本当の願いに従って生きれば」世界
「あなたの本当の願いは、『誰かを救うこと』。
そのために七年も、わたしの傍にいてくれたんでしょう?」(同前)
ここで世界が語るのは、キャラクターたちは物語のなかの日常でリアリティを獲得するということだ。電子上の存在達の経験も、彼らにとっては「本物」である。本物という言葉への負荷がかかりすぎていて、この短い感想記事ではうまく説明できそうにない。
これだけフィクションが流通する世の中でも、多くの人が(私も含めて)キャラクターたちのする経験を一段低く見ている。あるオタクが、キャラクターについて云々することを「お人形遊び」だと茶化して言ったのもそうだ。キャラクターに人生はない。彼らの経験にリアリティなど無い。そんな前提が暗に置かれているので、世界のような主張をされると「彼女は生きている」と驚愕してしまうのだ。
「望むと望まざるとに関わらず、
わたしたちはこの仮想世界で生まれた
たとえ虚構の箱庭だとしても、
そこで過ごした日々は本物だった」
これは、物語を持ちうるあらゆるキャラクターに命があると主張する言葉のように聞こえる。
私は考える。彼ら彼女らの言動をどのように受け取れば、彼ら彼女らにとって失礼ではないことになるのか。彼ら彼女らの権利を尊重することは、私達が他の人間や動植物に対してそうする場合とどのように同じで、どのように異なるのか等を。
また、これはバーチャルな領域で生きようとしている全ての活動者への祝福ともとれるだろう。私より上の世代ではまだ、VTuberを「フィクショナルキャラクターでも芸能人でもない半端者」として扱う人がいるように思う。2次元オタクは「あんなのは芸能人の真似事だ」と言い、テレビをよく見る保守的な層は「またわけわからないのが出てきた」と言うはずだ。
もちろん相当な大御所を除けば、ほとんどのVTuberは芸能人の真似事すら叶わない。紙に姿が印刷され多くの場所に露出することも、ライブ会場でステージ上に投影されることもない。物理的な支えを得ることが全くできない。しかし、そんなことが叶わなくとも、ネット上で仮の身体を動かす日々を送るだけですべてのVは「本物」なのである、本作が大筋で意味するところでは。
全然脈絡がないのだが、『ナルニア国物語』に次のような言葉があるそうなので紹介しておこう。まるでVに全てをかける人の宣言のように聞こえてこないだろうか?
よろしいか。あたしらがみな夢を見ているだけで、ああいうものがみな……頭の中につくりだされたものにすぎないと、いたしましょう。たしかにそうかもしれませんよ。だとしても、その場合ただあたしにいえることは、心につくりだしたものこそ、じっさいにあるものよりも、はるかに大切なものに思えるということでさ。あなたの王国のこんなまっくらな穴が、この世でただ一つじっさいにある世界だ、ということになれば、やれやれ、あたしにはそれではまったくなさけない世界だと、やりきれなくてなりませんのさ。……あたしらは、おっしゃるとおり遊びをこしらえてよろこんでる赤んぼ、かもしれません。けれども、夢中で一つの遊びごとにふけっている四人の赤んぼは、あなたのほんとうの世界なんかをうちまかして、うつろなものにしてしまうような、頭のなかの楽しい世界を、こしらえあげることができるのですとも。……あたしはナルニアがどこにもないということになっても、やっぱりナルニア人として生きていくつもりでさ。
(C.S.ルイス 瀬田貞二訳『銀のいす』(ナルニア国ものがたり 4)2000年)
話が脱線しすぎてしまった。正直、先に引用した世界とあねもすの会話がラストシーンでも私は全然満足だ。それより後は答え合わせと、ここまで着いてきたプレイヤーへのサービスだとしてもよかった。
本作は、最も強い意味でファンタジーに属する作品だと思う。キャラクターに人生はないと思っている私たちに対し、虚構の価値を留保なしに肯定する物語は昨今なかなか珍しい。毎日が味気ないと感じる人にはぜひプレイを勧めたい名作といえるだろう。