『烏に単は似合わない』(漫画版)について

2024/06/30

全4巻。1巻ずつ間を空けて読んでいた。とてもおもしろかったので紹介したい。

世界設定は平安時代の貴族社会がベースになっているが、人間は誰でも鳥の形に変わることができるというファンタジー要素がある(ただし、貴族はふつう鳥の形にはなろうとしない)。

東西南北を治める4つの家が宮廷(桜花宮)に后候補を送り出し、皇太子に選んでもらうというのが物語の根幹になっている。その后選びの中で色々と嫌がらせがあったり人が死んだりする話である。

今回は、4人の后候補の中から主に2人に焦点を当ててみたい。不可避的にネタバレをするので、もしこの物語をミステリとして読みたい人は先に本編を読んでしまうことを勧める。



白珠とあせび

白珠について。なんというか、私はいつまで経ってもこういうキャラクターが好きなのだなと思わされた。

他の后候補もそれぞれとても魅力的なキャラクターではある。とくに、異性愛ロマンスに興味を示さない(というかそれどころじゃない)浜木綿や、人間関係についてそれが性愛かどうかよりも相互の尊重や応答があることを重視する真赭の薄は、時代を捉えている気がして人気が出そうだ。二者と比べたとき、白珠はどこか古臭くも見える。要するに彼女は身分によって引き裂かれる恋物語のヒロインであるが、古典に類例がありすぎるからだ。

明らかに世界設定の下敷きにある平安時代の貴族たちが、自分の家のために有力者とつがいになることをどう思っていたかは、不勉強なので私はよく知らない。しかし学生の頃に仕方なく古典を読んだ知識からすれば、それぞれの人間にももちろん人の好みはあったようだし、ときには別に好ましいとは思わない人間と夫婦にならなければいけないこともあったのだろう。

白珠には入内して家を再興しなければならないという使命があり、そのためには幼少期の恋心など押し殺さなければならなかった。口では、もうそんな気持ちはとっくに捨てたと言いつつも、(家とか身分とか関係なく)一人の人間として誰かを求めたり求められたりする願いを温め続けていた。

もし、高校生の私がこの同じ物語を読んだとしても、白珠の描写に関心を抱いたに違いない。行きたくもない学校に毎日通わねばならず、学校でも家でも誰にも心を開くことができず、インターネットの片隅でどこかにいる究極の読者を待っていた私は、自分の心情のいくらかがここに描かれている、と感じたことだろう。


かつて関わった男に一途な想いを持ち続けているという点では、あせびというキャラクターも白珠と同じではないかとも思える。しかし二人を分けるのは、それを諦めようと苦しんでいるかどうかだ。

白珠は、自分ではない人たちの幸せのために折れよう折れようと思い、実際にそうするから、限界を迎えて壊れてしまう。また、たとえ自分の目的に不要な人間がいたり、不都合な事情があるとしても、切り捨てたり駄々をこねたりすることをつらいと思う(3巻で、白珠はあせびや真赭の薄にした自分の仕打ちを思い返してすべてが嫌になり、高所から飛び降りようとしている)。

思えば、私が2000年代後半の美少女ゲーム原作アニメで見てきた登場人物たちも、そのようにして「病んで」しまう人たちだった。また2010年代の作品ではあるが、私は『進撃の巨人』のライナー・ブラウンのことも思い出す。彼らは、義務に殉じることができずに苦しむ半端者たちだった。

そんな者たちと比べて、あせびは怖いほどに突き抜けている。自分が欲しいと思った相手以外(義理の姉でさえ)が暴行されようが死のうが、かわいそうと言って済ませてしまえるらしい。もちろん、彼女も他の候補者から辛く当たられて、宮を出たい(=若宮と結ばれるのは諦める)と周りにも訴えるのだが、結局それすらも自分の支援者を増やすためであるかのような気味の悪さがある。しかし若宮が指摘するように、あせびの君本人の世界観では、なぜか自分に都合の良いように物事が偶然進んでいき、言わずにいた事態を都合の良いように周りが解釈してくれ、最終的には想い人への道が拓けるということになっているのだろう。アマゾンレビューかなにかで見たが、彼女は明らかに「乙女ゲームの主人公」を戯画化した存在である。彼女は悪意を持ち積極的に人を傷つけようとすることがないので、罪悪感という言葉も彼女の辞書にはない(あせびの振る舞いは現代の刑法では「未必の故意」にあたるもので、責めなしとはされないのだが)。だから病むこともない。


「病む」人の核心は何であるか

2次元的キャラクターについて「病む」ということを考えるとき、その人物がどんな酷いことをしたか、いかにおどろおどろしいビジュアルを用いて描写されたかが語られる。もちろんそれも重要なことだが、私が白珠のようなキャラクターを見て2000年代後半の美少女ゲーム原作アニメを思い出すのは、彼女が懐剣を用いて人を脅迫したり蹴落とそうとしたりしたからではないし、文(おそらくは一己と交わしたもの)を弄んで幼児退行してしまったからでもない。彼女が、ものわかりがいい姫でいること、あるべき自分に追いつけないことに疲れていたからだ。病んでしまう人は自分自身と交渉し自らを正しい道へと説得するが、抑えつけたものは決して消えずにいつか戻ってくる。自分の心を捨てるために努力し、それに失敗することでしか自分の温め続けてきた願いを直視できない屈折が、「病み」の核心である。

また、自分自身を捨てようと奮闘する「病む」人はしばしば、自分の味方に立ってくれる人が誰もいないと感じている。なぜなら、彼らは自分の温め続けてきた願いを見ようとしないので、それを自己の真実として誰かに信じさせることが原理的にできないからである。その告白が行われるとしたら、自分のそれまでの努力を無に返す破壊的な機会にならざるを得ない。そして周囲は、あんないい子が豹変したと頭を抱えることになるわけだ。

まとまらないが、「ある目的のためにどのようなひどいことをできたか」によって「病む人」のイメージを分類することは上手くいかないと私は思う。経験上、彼ら彼女らの願いに対する意識の位置を見て、それで判断を行うほうがうまくいく。その位置は一つには、その願いに支援者がいるのかどうかでわかる。あせびには自分の願いに味方してくれる人が何人もいたが、白珠にその意味での味方は誰もいなかった(若宮が結果的に願いを叶えたが)


推理役への反感

若宮の推理が冴えわたる31話以降の場面はこの作品のエンターテイメント性の要だろう。たしかにこれは凄いと私も思ったが、推理モノ一般に抱くような反感を呼び起こされたような気もした。桜花宮の面々は、それぞれの家や個人の思惑で動いているために様々な思い違いをしたり嘘をついたりする。他方、若宮はどの陣営からも距離をとって物事を捉え、独自に調べを進め、淀みない語りで各人に真実を示して回る。推理モノで物語の種明かしをする役はそういうものだし、実際若宮というのは皇太子なので偉そうなのは当然なのだろうが、あまりにも各人の都合に土足で踏み込み過ぎではないのかと思いもした。どの家の味方もしないという目的があったにせよ、どこまでがそのための演技でどこまでが素の若宮なのか掴みがたいにせよ、ああいう雑な仕方で白珠に説教したり本音を言わせたりしたのはマジで許しがたい。浜木綿との関わりを見る限り彼は根っから冷血な人間というわけではないようだから、単に興味ない人間の気分には配慮しないというだけなのか。


どういうつもりで若宮のキャラクター造形がされたのかはわからないが、私は、彼については相当嫌なヤツだという印象を持った(ただし、ほとんど謎だった若宮の外出中の物語が続編として存在するらしい(私は未読)ので、公平な評価ではない)。むしろこれだけで魅力的だと思う読者がいるのだろうか?

かなり終盤になって今更現れたと思ったら、これまで描いてきた人たちそれぞれの人生を批評し始めて、物語内の真実を確定していき、なんか旧友といい感じになって終わるって何なのか。推理モノの推理役って、こういう嫌味なとこあるよね、ムカつくよね、という感想を持たせるための人物なのだろうか。『名探偵コナン』の、怪盗キッドの有名な台詞が想起される。


よぉ ボウズ… 知ってるか?

怪盗は あざやかに獲物を 盗み出す創造的な 芸術家だが… 


探偵は その跡を見て なんくせつける……

ただの批評家に 過ぎねーんだぜ?

青山剛昌『名探偵コナン』16巻


たしかに桜花宮の面々は、その視野の狭さで互いに滑稽な諍いを繰り返した。では話は変わるが、若宮という人物は思い違いをして恥をかいたり何かを失ったりしないのだろうか? 全知全能でなければそんなことはありえないだろう。批評家だって間違えることはあるし戦争も煽る。私はいつも、他人に対して偉そうにするだけでなく思い違いをして恥をかいたり何かを失ったりしているので、偉そうにしている人が私と同じ目に遭っているところを見て安心したい。物語で偉そうにしているキャラクターを見るといつもそう思ってしまう。




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