記憶は過去をどこまで変えられるか(『崩壊:スターレイル』ほか)

2026/09/21

昨年から、「記憶と向き合う」というコンセプトで自主出版物を集めたオンライン書店をやっている。

すると必然的に、個人の記憶を振り返った文章に触れることが多くなる。

そうなると、自分がもっている記憶や想起の概念について点検したほうがいいと思えてきた。


記憶の相対性

一つのきっかけはXにおける下の投稿だ。


(▼これは全部読む必要はない)

「私は夫に軽視されている」と腑に落ちた人が、現在を基準にして過去を再解釈し始めていることに着目。

人が語りだす記憶は、その語り出している時点で作られる。内容も、当時の思いや感情も、思い出している時点の自分の状態に左右される。一度思い出した記憶も、数年後にまた思い出したら全く別の記憶になっているかもしれない。

これを、ひとまず「記憶の相対性」としておこう。

2026年8月から話題となっていた「記憶汚染展」も、このような記憶や想起の曖昧な不安定さを強調した展示だったともいえるだろう。


絶対的な記憶と、時空の外部

では、絶対に変わらない「究極の記憶」を持つことは可能なのか? そのアンサーとなる存在を提出した物語がある。

中国企業miHoYoにより運営されているRPG『崩壊:スターレイル』だ。

この作品には、ある概念を追求し続けた結果、神霊的な存在となった「星神」(アイオーン) が登場する。

あらゆる事柄の「記憶」を追求した星神は、「浮黎」(ふり)という。

浮黎が他の星神と一線を画すのは、「時空全ての終焉にようやく誕生する」かつ「いつの時代にも同時に存在する」点である。

どういうことか。

もし、浮黎がいつか生まれており、それから生き続けるのだとすると、浮黎が持つ記憶は人間と同じで、不完全なものになってしまう。浮黎がこれから何を経験するかはわからず、その不確定要素によって記憶が左右されてしまうなら、完全な記憶とはいえないだろう。

だから完全な記憶を持つためには、普通の時間の流れから外れていなければならない。未来を経験せず、それでいて過去すべてを見ていなければならない。

pixiv辞典の表現が巧みだ。

「記憶」は、幾重もの現在というページが束ねられた、過去という物語を包むハードカバーである。

執筆途中の原稿を本には出来ない、製本に際してその物語には最後のピリオドが打たれていなければならない。

そして浮黎はいわば宇宙の全物語を束ね製本するために生まれた星神。 

全ての過去を記憶する、その意志を究極的に果たすためには、全ての過去の先に居る必要がある。 

https://dic.pixiv.net/a/%E6%B5%AE%E9%BB%8E

この例えを借りると、そもそも浮黎は「どのページを本に含めるか」まで選ぶことができるらしい。つまり浮黎は(あり得た無数の可能性から)過去を確定する機能をもっている。

『崩壊:スターレイル』の作品世界は所謂パラレルワールドを認めている。世界は様々な出来事の結果によって無数に枝分かれしており、その一つが作品世界としてプレイヤーに引き渡されている、という想定だ。

ただ、世界の分岐は程々に収めなければならない。たとえば、私がいま鼻をかむかどうかで世界が分岐していたらキリがないだろう。そこで浮黎が「こいつは鼻をかんだ」と記憶し、過去として確定する。すると余計な分岐は起こらないわけだ。

多世界解釈まで話が飛んでしまった。

記憶の相対性に話を戻そう。


想起の力とその限界

私たちは浮黎ではないから、必ずどこかの時代で生きて昔を思う。すると、ある言葉をきっかけとして遡及的に以前の経験を変えてしまうことがある。これは基本的に素晴らしいことだと思う。

「別の解釈をかき消すから良くない」との意見については、そういうものだとしか思わない。

あらゆる解釈があるからといって、何も言わずにいることはできない。何も言わないのも一つの消極的な決断だからである*1。

記憶の星神である浮黎ですら、全ての過去の可能性を残すことはできない。ある可能性は否定しなければならない。それは何か言ったりやったりできる存在の宿命だ。


ただし、「言葉をきっかけとして遡及的に以前の経験を変えてしまう」私たちの権能が、そもそも届かない瞬間がある。これは私の宗教的な確信である。

ひどく具体的な痛みの瞬間は、痛みが引いたからといって「良い経験だった」と後から意味を変更できるものなのか。被害/加害のストーリーの中に、訴状の中に、綺麗に収まる性質のものなのか。深く傷つけられた人が裁判に勝ったのなら、二度とフラッシュバックは起こらなくなるのだろうか。

想起に、ひとつの言葉にそれだけの力がもしあるのなら、どんなに楽だったろうか。

痛みの瞬間は曖昧でも多義的でも混沌でもない。徹底的に貧しく、薄っぺらく、だからこそ通常の時空の外にある。保留など通用しない。そもそも解釈するほど複雑ではないので、別の解釈とかそんな問題ではない。

「記憶」の対象外であり、想起が及ばない瞬間こそ、本当に救済を求めているのだと思う。だから本当は、「記憶と向き合う」だけでは足りないのだろう。それは記憶不可能なものの輪郭をつかむ練習である。


*1 勿論、間違った解釈や愚かな決断はあるだろうが、それは別の話だ。

また、想起するにあたって使いやすい既存の言葉が普及すると、どの記憶も似たような型やストーリーになってくるのは確かだ。しかし、そのコモディティ化を個人の資質や言語の機能に付すのは行き過ぎではないか。むしろ、それぞれの物語の長さや語られる環境に原因の多くがある。

どこかで見たようなストーリーに収まらない記憶は、一人の人間が自分の使ってきた言葉や思考の枠組みを振り返り、自分自身に対する批評を加えるリフレクシブな努力の中で生まれうる。したがって、文学には書き残した文字が流れ去っていかない1冊のノートと、それを常に読み返し何日間も検討を加える時間とが必要である。それが多くの人から奪われている社会だから、全く同じ印象を与える物語のパターンが140字程度で多発することになる。

逆に言うと、同じ型の繰り返しに陥っているとされるジャンル(例えば「異世界転生もの」「令嬢モノ」「ハーレクインロマンス」等)にも、ある程度継続されていくうちに自分自身に折り返され、検討を加えようとし始めた作品が存在する。十把一絡げに見下されている作品群の中からそうした作品を指定し、その努力を贖うのが批評家の役割ではないか。

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