日生佑稀「かわいいひと」について

2020/11/05

 標題に掲げた作品は、『デイライト』という短編集に入っている。作者はR18シーンを含む女性向け異性愛物語、いわゆる「ティーンズラブ」というジャンルで活躍中であり、今回の物語もそのジャンルに分類される。 なかなかこうしたジャンルを概説した資料というのは稀少で、衿野未矢『レディース・コミックの女性学』あたりしか思いつかない*1 。何かガイドがあればよいのにといつも思う。


 ジャンル分類に拘泥していても仕方がないので本題に入ろうと思うが、今回わざわざこの物語をとりあげるのは、そこに卑屈な人間の姿が鋭く描かれていると思うからである。自分や他人に「卑屈」という評価がどのように与えられるのか、そう評価されてしまう人は、他人とどのようなコミュニケーションあるいはディスコミュニケーションを経験するのか。この物語が具体的に明らかにするのはそこである。

 このnoteの他の投稿を踏襲し、物語のあらすじをさらっておこう。大学のランニングサークルに所属する2回生・柴は、同サークルの後輩・甲斐にダメ元で告白し、受け入れられる。才色兼備の甲斐は何かと自信がない柴のことをリードしつつ仲を深めていくが、柴はあるとき甲斐からバカにされていると感じて口論になり、二人の関係には亀裂が入りかける。その後、柴はせめて彼女の隣に立てるようにまず外見から変わろうとイメチェンを試み、甲斐はそんな柴に惚れ直し物語はハッピーエンド、と相成る。

 この筋の中で重要なのは、なぜ柴は甲斐からバカにされていると感じるのかということである。その機序はまず、彼がサークルの中でどんな役割を持っているかを追わなければ理解できない。

 彼は男性にしては小柄で、「どんくさい」ところがあり、「シャイ」である(自分の感情をそつなく表現したり、ノリの良いジョークについていくことが苦手)。こうした人間があまり文化系とは言えない集団に所属したらどんな役割をもつことになるか、想像がつく人は多いだろう。もう一昔の言葉かもしれないが、「いじられキャラ」というやつである。これでピンとこない向きのために解説すると、集団で誰かをからかうことを毛づくろい的コミュニケーションのとっかかりにするとき、そのからかいのターゲットとして抜擢されやすい役柄のことである。

 ただ、このようにして柴に「構う」人たちは多くの場合、彼を集団から排除しようとしたり傷つけようとは思っていない。むしろ、その不器用さや要領の悪いところを好都合だと思っている。そういう人は、あまりに完璧すぎて人を緊張させたり、闘争心を煽ったりしないからだ。絶対に自分にとって脅威にならない、かわいい存在なのである。おそらく柴も、この扱いを全面的に拒否したいと望むわけではないだろう。本当にそうならサークルなど行かなければいいのだから。

 つまるところ、からかいには二重性がある。それは一方でからかわれた者をその集団における理想的な姿と照らし合わせて劣ったものとするが、他方で、あなたは集団にとって本当に不要だと言いたいわけではない、これは演劇であるというメタなメッセージを伝える。しかし、後者のメッセージをうまく受け取れなかったり、前者の評価をとても重大に考えてしまう人間というのがいる。そういう人は、サークルなどでからかわれているときは一緒になって馬鹿笑いをしていても、解散して一人になってみると死ぬほどムカついたり泣きたくなったりするのである。ある劇が終わると劇自体は虚無に還るが、役者たちは役を演じる中で言われたことをそれぞれ印象に残していて、それは劇の外の現実に何ら区別されずにこびり付いている。

 彼は「集団における理想的な姿と照らし合わせて自分は劣っている」と考えることにあまりに慣れているから、甲斐が自分のどこに美点を見出したのかがまるでわからなかったのである。

なんで…OKしてくれたのかな
甲斐さんみたいな キレーな人が
ほんとに 俺なんかを
(p. 19)

そんなところに、甲斐の次の発言である。これが、二人の関係に亀裂を走らせるきっかけとなる。

柴「俺はこんな… …だせーし とろいし…
千早より 背も低くて
…全然 いいとこなくて…」
(略)

甲斐「先輩は そこがいいんじゃないですか
 へたれなところが」
(pp. 28-29)

柴はこの言葉を聞いて、結局のところ甲斐も他の人々と同様に、構って面白いキャラとしての自分の機能を「好き」なのだと悟って幻滅する。つまり、自分には結局そのような功利性抜きで好意を持たれるに値するような美点などありはしなかった、自分は自分の思っていた通りのものでしかなかったという事実に対して、恥辱と怒りを覚えるのである。

柴「………そっ

 それって じゃあ何か
 ゆ…優越感にひたれるから
 …って事?」 
甲斐「え…?」 
柴「ヘタレ からかって 楽しいー…
 面白いから「好き」って言うならソレは

 俺をいじって喜んでる奴らと一緒じゃねぇの?」

甲斐「…いやだったんですか?」 
柴「馬鹿にされて
 嬉しいわけないだろ…っ」 
(pp. 30-32)

 自信をなくしたり、気が動転して要領よく振る舞えなかったりするのは誰にでもあることだ。だから、そういう姿を見せてくれるのも人間らしくて好感がもてるというのであれば、誰が優れているとか優れていないとかいう問題ではないはずである。実際、甲斐は柴が自身を持てないでいる不器用さや要領の悪いところこそが魅力だと感じていた。

不器用なところだって可愛くて好きだよって 
本当はそう言いたかったのに 
(p. 34)

 それでも、「不器用なところだって可愛くて好きだよ」と柴に言ったところで、おそらくそれもまた優越感の表明と彼には聞こえてしまう。「構う」ことと「馬鹿にされている」こと、「かわいいと感じる」ことと「優越感をもつ」ことは紙一重だが、彼はそれぞれ前者のような自分に都合のいい解釈を取ることができない。お茶目なマスコットになることが人をどんなに喜ばせても、それを自分の魅力だと思うことは彼にはほとんどの場合無理な相談なのである。

 まとめよう。現在の自分の持ちえる要素を世間一般より劣ったものと考え、かといって他人にそう評価されたと思うと憤慨し、その要素が他人にいくぶん肯定的な効果を与えていたとしても決してその効果を認めない。これが卑屈な人間の姿である。


 ただ誤解しないでほしいのだが、この「かわいいひと」は卑屈な人(男)の行動原理を描き出し、その哀しい生き様をまるごと肯定してみせる癒やしの物語ではない。

 そう言える根拠は物語の演出面にある。この物語には、柴に帰属できるようなモノローグがほとんど存在していない。間違っても彼の内面を提示することがテーマではないのだ。だから、上のようなくだくだしい記述は彼の言動から私が妄想した内容だとしても間違ってはいない(これだけ妄想できるほどに、柴の言動は卑屈な人間の典型をとてもよく捉えているのだが)。むしろ物語の基調を成すのは甲斐に帰属するモノローグである。つまりこの物語は、「卑屈な人間を前にした人」がどのような気分になり、何を感じるのかに着目しているのだ。

 自分の言ったことをことごとく悪く取られてしまうとき、自分の評価が無視されたとき、相手が勝手に傷ついていってしまうとき、人が感じるのは独特の苛立ちと徒労感である。

 先の諍いの後、甲斐はたしかに「へたれ」などと言ってしまった自分の言葉について反省する。しかし、柴のほうも自意識過剰ではないのか、とも感じるのである(モノローグが甲斐主体である以上、これに同意する人は多いだろう)。そして極めつけには「なんかもう ちょっと 面倒くさいなぁ」(p. 35)と一人自室のベッドの上で思う。この正直な告白こそが、世の凡百の物語からこの「かわいいひと」を区別している。

 そして、こちらもたった一言であるが、卑屈な人間とその相手をする人間のディスコミュニケーションが描かれている。

柴「…千早ってさ」 
甲斐「ハイ」 
柴「オレより先に告った奴がいたら
 その人と付き合ってた?」 
甲斐「はぁ!?」
甲斐「…そんな来る者拒まずな女に見えます?」 
柴「そっ… いや…」 
(pp. 27-28)

 端的に言えば、卑屈な人はそうと気づかずに他人を侮辱するのである。他人の良心を信じない人間は、好き好んで自分の相手をしてくれる人間を不誠実で気まぐれな人間に仕立て上げてしまう。

 先に見た諍いの前にさりげなく挿入され、すぐに流されてしまうやり取りではあるが、このやり取りこそが自虐的で卑屈な態度について多くを教えてくれる。そのような態度が、なぜ人間関係の中で肯定的な意味を持つことができないのかということを。

4773098821




 

*1 近年のティーンズラブ作品のレビューで素晴らしかったのは、川原和子『人生の大切なことはおおむね、マンガがおしえてくれた』のp. 211以降である。具体的な作品からこのジャンルに接近しようと考えているなら一読を勧めたい。

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