木尾士目『げんしけん』(漫画版)について

2024/08/16

アニメ化もされている有名作品なので概要は不要だろう。ある大学のオタクサークルを舞台に大学生たちの恋愛模様や同人活動への挑戦、コスプレ文化周辺などを描いた作品である。異論もあろうが、単行本1~9巻が第一部、10~21巻が第二部となっている。


私が印象に残っているキャラクターは、第一部の中盤あたりから登場する荻上という人物だ。

荻上は、オタク(特に女オタク)が嫌いだと事あるごとに口にする。そうでありながら彼女は二次元イラストに高い能力を持っていて、特に18禁描写を含むBL漫画を描くことに長けている。いわゆるやおい同人を読むことも小学生5年生以来好んでいる(※25話より。商業BLの描写はなかったためそこは不明)。

それだけ見ると、結局荻上はオタク的な妄想に対して否定的なのか肯定的なのか混乱させられると思う。答えてしまうと、彼女はオタク的な妄想が人を傷つけるものだと思っているため肯定できないが、それでも妄想は止められないことに葛藤しているという状況である。

彼女は、ごく一部の友人間で実在の人物をネタにBL的妄想を楽しむことにも馴染んでいた。実在の人物を元にしたBL的妄想は「生モノ」と呼ばれ、伝統的に隠れて楽しむべきジャンルだとされてきた。着想の人物本人に、その妄想の内容を伝えた事件があったとされたからである(Wikipedia)。生モノ同人の愛好者は、それが加害的なコンテンツだという認識を強く持っているようである。

ただ『げんしけん』の多くのオタクたちの立場は「妄想は誰にも止められない」(第46話 笹原)というものだった。さらに、その妄想を人に見てもらう欲望も止められないとされている(「ふふふ………… 口では何と言っても 結局は見せたがり なのが私達の性……」第40話 大野)。しかし他方では、荻上が身を以て知ったように、妄想をどれほど小さくでも世に出そうとすれば、他人の人生を良くも悪くも変えてしまうかもしれない。だから妄想を世に出さずにいられない人は、その責任を一生かけて背負っていくのだという(49話)。筋は通っている。特に私がツッコミを入れるべき点もない気がする。(そもそもツッコミを入れたとて、それをこのようにネットに流した時点で、お前も見せたがりの一人だろということになる。)

荻上は生モノの影響力を十分に認識していたコミュニティにいたし、実際に自分の書いた妄想で誰かの人生を狂わせてしまったことがあるため、自らの妄想の破壊力を大きく見積もっている。自分の妄想は周囲の人々を滅ぼす。だから妄想を他の人に見せてはいけない。ただ荻上は、そこで描くのをやめようとか、2次元文化のコミュニティから離れようとはならない。発表はしなくとも絵を描き、オタクたちの周辺をうろついている。


私の考えでは、このようなどっちつかずの態度が、人間関係に「恥じらい」を導入する。見せたがりの荻上は、「妄想を見せたい・受け入れてもらいたい」が基底にある。しかし同時に、「見せたくない」とも思っている(見せた相手は死んでしまうので)。この間に恥じらいはある。ここから先は入るなと言って、相手もそれに納得して入っていかない場合、恥じらいの余地はない。付け入る隙や押し入る強気を見せることでしか恥じらいは生じない。

これは、恋愛やその他の深い付き合いに、なぜ恥ずかしい思いが伴うのかの理由でもある。恥ずかしい思いをしながら人間関係をする人は皆、聞き分けが悪く、あざといのだ。人が嫌だと言っているところに押し入ろうとする人がいるし、近づくなと言いながら物欲しそうにこちらを見ている人がいる。

げんしけんの中で行われるコミュニケーションは、オタクの妄想で殴りつけ合うみたいな側面がたしかにあり、普通にハラスメントでは? という感じも大いにある。私が高校時代にいた部活も同じような雰囲気だったが、私は周りと同じように気持ちを開放することはできなかった。自分の妄想を生身の人間を前に語るのは恥ずかしくて、初期の笹原のように受け流したり、荻上のように引いた感じで眺めることしかできなかった。しかしそれでも私は部活にとどまり、毎回律儀に小説を書いて提出し、部員に読んでもらいたいと思っていた。私はそのときから今までずっと見せたがりだった。どこか一歩引いていながら見せたがりであることについて、とやかく言う人がいなかったのは救いだった。高校生活のあらゆる閉塞の中でわずかに風穴が空いていると感じていた。


荻上の一連のエピソードについて、あるいは『げんしけん』で見られる諸々の人間関係について、結局異性愛に回収されるのかい、と嘆息する気持ちもわからないでもない。初期からずっと男性同性愛のコンテンツに言及があったとなればなおさらだろう。ただ、荻上のような人物が変わったのは異性のパートナーを得たからというより、恥じらいを伴うような関係(それは笹原以外の現視研メンバーとの関わりを含む)を解消せずに留まったからだとは言えないだろうか。


そもそも何によって救われても構わないだろう、と思う。

自分の妄想で人が死ぬ悪夢に魘され「あの時死んでればよかった」(46話)とまで思うような人が、何らかの合法的手段で「楽になる」(47話)ことができたなら、それより素晴らしいことはないだろう。荻上はハラスメント的・誘惑的な関わりに塗れる中で、恥じらいと媚態の中で、自分にとって楽な姿勢を見つけ出す。


最近の私はいろいろなことを諦めそうになっている。オタクの妄想話を誰かに披露する時間も気力もないので、あらゆる回線を切って引きこもりらしく朽ちていくべきなのではないかと感じる。しかし生来の見せたがりが何も見せずに一人悶々としていると現実に身体を壊すことになる。他人を殺し尽くしたり自分が殺されたりする悪夢から逃れるために、私はこういう他人に見られるかも知れない場所で、正直に書いたと思えるようなネバネバした文章を定期的に公開し続けなければならない。

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