『チェンソーマン』と「エッチなこと」

2021/01/31

ストーリーの解説はしない。

この物語で、私と同じ要素に注目していた唯一の記事が以下である。

「胸を揉みたい!でも…」人気漫画『チェーンソーマン』の女性表象の秀逸さ by @sisterleemag https://link.medium.com/QwsZbhn3tdb

作中の胸を揉むシーンに言及があった記事は、管見のかぎりこれだけだ。どうして、他の人はこの要素に着目しないのだろう。SNSでは、様々な論客が様々な作品のエロの是非について紛糾しているというのに。

『チェンソーマン』の「お色気(死語)」表現が、少年マンガというジャンルの中でいかに特異なのかは次の言葉に要約されている。

「エッチなこと」を単純に、他人の身体、特に性的な意味合いを強く持つ箇所に触れること、という意味で終わらせることなく、他者との関わり合いの中でより深い意味を持っていく。

そして、記事で取り上げられている作中の人物マキマのセリフがこの価値観を表すとされている。ここでも引用しておこう。

「デンジ君
エッチな事はね

相手の事を理解すればするほど
気持ち良くなると私は思うんだ」(2巻、98頁) 

こういった価値観はたしかに少年マンガでは珍しいのだろう。ジャンプをそんなに隅々まで読んでいないからよく知らないけれど、記事中の次の言葉から推測すれば、おそらくは。

ジャンプではしばしば、揉まれて形を変える胸が「エロ」い表現として登場する。その際には女性キャラクターは単なる女体としての役割しか持たず、性的に消費される客体となる。

相手への理解を伴わない性的行動(記事中でいわれている「ラッキースケベや風呂覗きといった行為」)は性的モノ化にあたるとするのは、もちろん大事な論点だ。今ではよく知られているが、「(女)個人の感情を無視」は、マーサ・ヌスバウムが「(性的)モノ化」の要素として数えたものの一つである。

「相手への深い理解」と「エッチなこと」の結びつきを前提とする表現は、ラッキースケベや風呂覗きといった退屈で有害なステレオタイプに代わるものとして少年漫画に浸透するかもしれない。というより、すでに浸透しつつあるのかもしれない。それ自体は、何より虚構・現実の女性の性的モノ化に与しないという点でも、常に新鮮味を求めるポップカルチャー界としても、喜ばしいことだろう。


しかし、そのような表現もまた新たに一部の人を捨て置かずにはおかない。

(これ以降は、『チェンソーマン』が作品として優れているとかいないとかいう議論からは少なからず逸脱する。)

「相手への深い理解」と「エッチなこと」の結びつきを強調しすぎることは、それはそれで論争的であると私は思う。

たとえば、若者のうち一部のひねくれ者は『チェンソーマン』2巻を読み、次のように考える。「デンジが感じる(ように描かれていた)昂揚を味わえなかった自分は、好きな人のことを理解していなかったということになるのだろうか……?」。相手のことをよく知ろうと思い、一生懸命にそう努力してもなお「エッチなこと」が結局「こんなモン……?」という落胆に終わっただけだとしたら、彼・彼女は一体どうするのだろうか?


順番

そもそも、本当に文字通りに読むのであれば、先に引用したマキマの台詞は「相手のことを理解」した後に、「エッチなこと」があるべきだ、ということではない。そこで言われていたのは、 エッチなことの気持ちよさと相手への理解度が比例するはずだ、ということである。大抵の人は気持ち良いことが好きだろうから、相手の事をより理解した上でエッチなことをするほうが、あまり理解しないでするよりいいよね、とは一応言えそうである。しかし、順番で言うならば、性的行動のさなかで、あるいはそれを単なる関係の取っ掛かりとして、相手を理解していくことも十分に有り得る。

しかし実際には、性的な関係を持つことは一種の賭けや実験であって、お互いをよく知りあうための手段そのものであるのが実状かもしれない。ある種の人々にとっては、親密さから性的関係をもつというよりは、性的関係が互いについての人格的知識と親密さを作ると言えるかもしれない。性関係をもってから、どのような関係をもつかを判断するという人びとも少なくないだろう。 (江口, 147頁)

2巻の98-99頁で二人が手で触れ合ったり指を噛ませたりするのも、相手をよく知ることでもありながらすでに官能的な行動でもある(そう感じない人もおられようし、相手や相手との関係によるというのはもっともだが)。それは江口が述べるように、互いについての人格的(?)知識と親密さを作る試みかもしれない。

ただし勘違いしてほしくないが、私はこの観点からしても「ラッキースケベや風呂覗き」的表現がいまだに繰り返されることがよいとは思えない。そういった行為が親密さを生むとは考えにくいからだ。もしかすると男子グループ的なノリの中ではそれが親密さを生むと考えられているのかもしれないが、しばしば犯罪的だと考えられるようになったことをして相手が親しみを覚えてくれる蓋然性が高い、と考えるほうが奇妙であろう。もしラッキースケベや風呂覗きが何らかの仕方で互いについての人格的知識と親密さを作るとするなら、実例を示した上でどのようにしてかを説明できなければならない。が、それは私の仕事ではない。

また、その手の経験は視覚に限定されているという貧しさがあるうえに、「見られずに見る」という一方的な構図を持っている。もし見ることが知ることだとしても、一方的に知ること、知られることは「互いについての」人格的知識と親密さは構築しない。むしろ、知るほうは自らが対象から視線を向け返されることを恐れて、そして知られるほうはいっそ彫像に成り果てようとして、互いのコミュニケーションは双方向であることをやめるだろう。


お互いをよく知らない交際のはじまりの時点で性関係を持つこと

私は男性向け・女性向けにかかわらず、18禁シーンをメインにしているマンガをよく読む(ただし、数としては異性愛中心の作品を選ぶことが多い)が、そこではしばしば、会って数時間の、まだお互いのことをろくに知らない人々が「エッチなこと」に走る。しかも、彼ら彼女らがその後、相手のことをよく知っていくようになるかは作品によってまちまちだ。短編では、悠長に相手のことを知っていく紙幅の余裕もないからだ。

そして現実世界では、私の周りにはそれほど多くないが、毎夜のように不特定多数の人間に声をかけ、すみやかに「エッチなこと」を開始し、そして二度とは会わないという人々も男女問わずいる。

もし、そういった作品の読者や夜の人々ができるだけ良質な快楽を求めているとしたら、このような「行きずりのセックス」選好はどうして生まれるのだろうか? 「まだお互いをよく知らない交際のはじまりの時点で性関係を持つことはつねに不正である」のだろうか。そもそも「性関係」とは? どこまでならOKで、どこからがNGか。その議論に終わりはあるのか?

私は人間関係に限らず臆病な人間だと自負しているため、当然「行きずりのセックス」についてはそのリスクばかり考えてしまい、踏み出そうとは思わない。しかし、それを道徳的に不正だと証明することに労力を割くつもりはないし、それを特に理由もなく低級なものとするような言説には与したくない。他人がそれにより強い快楽を感じようが、別に快楽の度合いで勝負しているわけではないので、こちらを侮辱してこない限りは至極どうでもいい。

つまり、私は「相手への深い理解」と「エッチなこと」の結びつきは否定しないにしても、それが常に、誰にとっても同時に現れるとか、普遍的に決まった順番であらわれるという主張にまで至ることがあるなら、眉に唾をつけて聞きたいと思うのである。

おそらく、そのような性と人格の強い同一視は、アセクシュアルの人たちを追い詰めもするだろう。エッチなことの経験と、相手のことを深く理解することとは分離不可能(であるべき)だと考えてしまうことは。繰り返すが、『チェンソーマン』が厳密にその前提に基づいて作られていると言いたいわけではない。


そもそも

2巻97頁以降のマキマの振る舞いは、別に本気で相手と親密になりたいとか相手に啓蒙をしてやろうとかいうつもりではなくて、デンジに餌をチラつかせてその後うまく活躍させるための策略なのだと断言してしまうことも可能だ(つまらない解釈だとは思うが)。実際、最終話付近で明かされるマキマ関連の情報は、このような解釈を十分に許容する。

よろしい、デンジがマキマと行っているコミュニケーションは最初からそれ自体不純なものだったとしよう。だがそれで、『チェンソーマン』の読者が無価値な掛け合いを読まされたことに事後的になるというのは意味不明である。私は物語の結末を知っても依然として、二人のコミュニケーションは喜びをたたえた価値あるものだったと考えるし、その喜びは、むしろ「エッチなこと」でも「相手への深い理解」でもないところに生じたのではないかと思っている。


また、『チェンソーマン』はあくまで全年齢を想定した作品であるために、粘膜接触はつねにギャグや戦闘開始によって誤魔化されていることに注目すべきだろう。冒頭の記事でも指摘されているように、デンジの経験するディープキスは吐瀉物によって中断され、その後5巻で登場するレゼとのキスも、まさにその最中でデンジを狙った罠と化す。

そして全体として、男性的エッチなものの伝統である萌え絵的なコードは、(劇画の流れを汲んだ?)写実性で上書きされている。具体的に言えば、男女・人間悪魔問わず、独特の「顔芸」やスプラッタに巻き込まれている。

こうした手法は、「エッチなこと」が粘膜的な接触や萌え絵的イラストに短絡してしまうのを注意深く回避することでもあるだろう。


最後に言及しておくべきは、9巻でデンジがパワーの介護をする場面である。よく知っている相手の裸体を見たり触れたりすることがあっても、不思議とエッチな感じはしないと彼はひとりごちる。相手のことを知ったところで、相手の身体自体が快になるわけではない。では、相手を目指した「エッチな感じ」はどこから来るというのか? それはこの短いメモでは考察する余裕がない。


参考

江口聡「性的モノ化と性の倫理学」,京都女子大学現代社会研究『現代社会研究』9, 135-150頁, 2006.

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