一応、あらすじを紹介しておこう。
事務用品の小売企業に務める主人公・辻は、職場の上司や後輩となんとなくの恋愛関係を保ちながら日々を送っていた。辻はある日、コンビニで出会った女性・浮世が踏切で立ち往生してしまったのを助けるが、彼女は金を持っておらず、辻は車の弁償金もろもろの支払いを肩代わりさせられる。
後日、辻は浮世と偶然再会するが、彼女はすでにほうぼうで借金を抱えており、辻はまたしても彼女のためにそれを肩代わりする羽目になる。辻は彼女の生活が破綻しているのを悟り、金を取り立てるのを諦めて浮世のもとを去ろうとするが、彼女がまさにこれから風俗に売られようとしていることを知ってしまう……。
二宮ひかるの『ナイーヴ』と『ハネムーンサラダ』に、裏世界の要素を加えたような雰囲気の話だった。ただ、人々の台詞に関してこっちの方がやや観念的な語彙が多いというか、だからこそ明晰な印象も与える。
運命の女、主体性の欠如
彼女の周囲の男たち(まれに女たちも)は、そろって彼女を「運命の女」とみなす。つまり、男を破滅させる魔性の女だと決めつける(煽り文が人の興味を引くためにあるとしても、「ただそこにいるだけで 災厄を呼ぶ女!!」(3巻裏表紙)とか書くのはひど過ぎませんか??)。しかし話が進むにつれて、主人公は「運命の女」というのが女性蔑視を背景とした一方的なレッテルであることを理解する。彼が浮世に関わり続け、彼女の周囲のトラブルに身を投じ、かつ周囲の人々からの聞き取りを経ていくことによって。
彼女の周囲の人たちが、揃いも揃って「運命の女」のイメージを持ち出してくるのはなぜなのだろうか。それはたんに彼女の周囲の人間が特別に俗悪で、偏見に満ちているということだろうか? いや、彼らにとって、彼女はたしかに脅威であるように「見える」のである(この「見える」ということが決定的に重要であり、この点を忘れたらレッテル貼りの反復となる)。ではそう見えてくるのはなぜなのか。
物語のほとんどの場面で彼女にはおよそ主体性というものがないのだが、その受動性は、彼女が周囲の人たちにとって無害だということを意味しない。自分にせよ相手にせよ極端な主体性の欠如は、コミュニケーションを求めるすべての人にとって躓きの石となる。彼女を前にして、主体的に振る舞う(しばしば自分勝手な)男たちは、自分が馬鹿にされていると感じる。裏をかかれ、誤った判断に導かれ、不適切な情念に支配されてしまうと感じる。なぜなら彼女には自分の行動を貫く確固たる信念などなく、したがってその行動を予想したり操作したりすることはほとんどできないからである。説得することも何を望むかを尋ねることも無駄である。
辻「明日のことはわからない。このような言葉の無意味化が起こるのは、彼女が自分で言うように、彼女の日々こそが極限状態であるからだ。
昨日、死んでもいいと言っていた君は、今日は生きたいと言っている。
こんな極限状態の君を責めるのはおかしいかもしれない。
でも、君は普段からそうだ。
今日 言ったことは、 明日には意味がなくなるんだ。」
(6/p. 192、強調引用者)
「だからあたしは他人に受け入れてもらうために必死だった。あたしだって辻さんのように、クールに生きたかった。でも だめなの。 必死で人に媚びないと生きていけないの。」(6/p. 193)
主体性の欠如のことはともかくとして、物語が彼女の現実的な苦境から話が始まることに注目しないわけにはいかない。「自由な主体が行う」契約を前提とした社会が、浮世のような人を徹底的に食い物にしていく構図が存在する。ときに押し売られる新聞、車、姻戚関係。
「スキあるからいけないんじゃないかな 浮世さんて、そういうところあるから。
結局は自分で自分を守るしかないんだ。
彼女はだらしなさすぎる。」「ひどいこと言わないで!
確かに浮世ちゃん、スキだらけかもしれない。 男好きのするタイプだって言われるの。
あたしもよく言われたから。
でも そのスキをすごくついてくる人がいるのよ。
押し切られて負けるのは、自分を守るのがへたなだけで、
それってそんなに悪いことですか?」
(3/pp. 18-19)
どちらかというと私は、生活のために物を売りつけるというのが不可避になってしまうことと、その手口が巧妙化していることが悪いのではないかと思っている。特に高圧的でなくこちらの良心に訴えつつ物を買わせようとしてくる手合いは本当に最悪というほかない。村上知彦の『まんが解体新書―手塚治虫のいない日々のために』収録のエッセイ「物語ることへの欲望は消えたか」(p. 64以降)がこのあたりの訪問販売の不快さをよく描いていた。打ち込むのが面倒なので引用は控える。
鳩にすら生物と認識されない人間、という概念
インパクトが強い。
「いつも心が、なにかにとらわれているの。」
人に弱音を吐くことを自らに許せるというのも、その人のもつ自由さではないだろうか。このような指摘が、浮世によってなされていたことが印象的だった。
浮世は、精神的に不安定になった元愛人の峰内をサポートするために彼の元へ赴く。峰内はかなり調子を取り戻し、浮世に結婚を申し込んだ。しかし彼女はそれを断る。次はその二人の会話である。
浮世「あなたは強いわ。とても自由なの。」
峰内「自由? 僕が?」
浮世「あなたはあたしに弱音をはいたり、
逃げ場を作ったりできるじゃない。
逃げ場をつくれるってことは、自分を許せるからなの。
逃げ出した自分を、また元の場所に戻れる自分を、
その時その時で自由な選択をしてる自分を、
最後は許せてるじゃないですか? だから、あたしと結婚なんて考えて、
それは心が自由ってことじゃないですか?
自由ってことは強さってことじゃないですか?」
(中略)
浮世「だけど辻さんは違う。
あの人はだれよりも繊細なの。
いつも心が、なにかにとらわれているの。」
(6/pp. 30-31)
辻は何にとらわれていたというのだろう?
浮世やその愛人の峰内の意思にではない。彼が自分で言っていたように(cf. 4/p. 80)、義務感や正義感でもない。
彼は、自分の選択を根本的に肯定できない。どんな選択をし、どのような境遇に落ち込んでも、何かボタンを掛け違えてしまったかのような、漠然とした居心地のわるさや後ろめたさに浸かっている。今ここにある物事に満足していない。
(オタクというのは「今ここにいない人」の話をする人のことだ、と誰かがツイッターで言っていたことを思い出した。)
今ここに漠然とした不満を持っているのは、何に関しても全力を出さずに規制している自分自身との葛藤があるからかもしれない。
「本気でギラギラするのはカッコ悪い、挫折して傷つくのもいやだ。
自分がプレッシャーに弱い、ダメな人間だってことにきっと気づいてたんだ。」
(6/p. 180)
多くの場合、反省というのは行動を差し控え、それによって自らの万能感を信じるのための手段になる。万能であれば今ここで全力で挑戦しても首尾よく行くはずだが、いざ全力で試してしまうと必ずしもそう上手くは行かないことが露呈するので、万能であるためには常にリミッターをかけなければならない(しかし、そうしているかぎり「生きてるってリアリティ」は手に入らない)。
「いつも心が、なにかにとらわれているの」。反省する人が陥るこの逆説を、浮世は見て取っていたのである。これを「繊細」と呼ぶのはいささか美化し過ぎであるような気もするけれども。