ゼロ年代批評などを拾い読みしていたときから物語の概要は聞いていたが、『エヴァンゲリオン』と名のつくコンテンツをちゃんと解釈しながら読んだのは初めてのことだった。大学生のころそれぞれ一度だけ新劇場版の序・破を見たことがあるが、情報が多すぎて正直よくわからないまま終わった(今も細かいところはよくわかっていない)。考察を積み重ねてこられた方々、お手柔らかに願います。
今回言及するのはほぼ碇シンジと綾波レイの二人についてだけだ。
ただし、はっきりしているのは自分はシンジやレイというキャラクターが好きなのではないということだ。二人が共にいるときのあの空気感(この「感」とは何か?)が好き、つまりシンジとレイの関係性(この「性」とは何か?)が好きなのだろう。そのように思ったのは、先日読んでいた『俺たちのBL論』(文庫版『ボクたちのBL論』)の中で、「キャラ萌え」と「関係性萌え」の違いが強調されていたからだろう。
当たり前だが、アスカに対するシンジと、レイに対するシンジはかなり違った態度の人間である。自分に関して饒舌なアスカとは対照的に、レイはほとんど自分の語るべき過去を持たないので、シンジもあえて聞かない。二人の間で交わされる言葉は決して多くないのに、互いの間をなにか濃く流れるものがある。
私は二人の間に、言葉を喋らなくとも相手と同一化し親密な関係を生み出すという、赤ん坊の頃から人間が持っている不思議な能力を見る。
5巻の57ページ以降では、レイが湯を沸かそうとして手をやけどしたにも関わらず平然としていると、シンジは慌てて彼女の手をとり冷やそうとする。ここで彼は、彼女の代わりに痛がったり痛みを回避しようとしている。このような行動を見た側は、なぜかその相手のようにその痛みを真剣に受け止めるべきであるような気がし、自らの身体がほんとうに尊重されるべきものであるような気がしてくる。Bの感覚を感じようとするAの感覚をBが感じようとする、という同一化の繰り返し、あるいは真似しあいが、親密な関係にはしばしば現れる。私は、二宮ひかるの短編『もう逢えない』の次の言葉を想起せずにはいられない。
誰かが自分のかわりに 怒ったり悲しんだりしてくれる
それがどんなに心安まることか……「もう逢えない」(『恋人の条件』p. 137.)
身体を通した同一化というのはなにも性行為だけではない。というよりも、同一化のひとつのやり方として「相手の痛みをかわりに痛がる」という事態がありうる。この痛みが、精神的なものであろうと身体的なものであろうと。
ただ、気遣う側が男で気遣われる側が女の場合、怪我を気遣うこの手の行為は「資源としての女体の維持管理」というパターナリスティックな構図と区別し難くなる。
冬野梅子が著した、モーニングの奨励賞を受賞した作品「普通の人でいいのに!」を見てみよう。主人公は風呂でいつの間にかできていたアザに気づくが、すると彼氏の「ヒロくん」がそれを気遣う場面が想像されてくる。主人公はこのような想像が浮かぶことを「私の体がシェアされている」と感じる。
この「シェア」という表現には、先のパターナリスティックな構図が念頭にあるのだろう。現実にこの「シェア」は女性の自律性への攻撃を示すことが多いだろうし、世の男女関係に父権制をはっきりと認識している女性が、「シェア」に対する違和を察知するのは当然のことだろう(「だろう」。推測)。
気遣いを見せることは魔法の杖ではない。気遣いが親密さを作ると同時に支配の手段でもあることは否定すべくもない。やけどを冷やすことがジェンダー闘争の集結を導くなどという主張をするつもりは毛頭ない。
ただ、シンジのされるがままに腕をとられていたレイが終始受動的で男の操り人形かといえばそうではなく、手を冷やすシーンの直後はっきりとシンジに向けて「こうしたほうが良い」と主張するのは彼女のほうであることは付言しておきたい。
シンジのようなキャラクターとレイのようなキャラクターが交流し、レイのような感情表現に乏しいキャラクターが感情表現豊かになり、シンジのようなキャラクターが自尊心を回復させていくという物語は、エヴァ以前にも以降にも星の数ほど作られただろう。だから、エヴァという物語の特徴はキャラクターたちの性格や関係の着地点にではなくて、キャラクターたちの交流の性質をきちんと描き得たことに存している。すると、エヴァのある意味での源流や後継者は日常的なラブストーリーであり、その中でも模倣的共鳴の描写を重視し自覚的に紙面を割いた作品である(先に言及した二宮や冬野を参照せよ)。私の思いつきが独創的であったためしはないので、似たようなことはすでに2、3の批評家が語り尽くしていることだろう。
漫画を読む前は、『エヴァンゲリオン』の中学生たちの絡みといえば「シンジが全裸のレイと鉢合わせする」「シンジがアスカを前に自慰をする」くらいの認識しかなかった*1。こういったもはや露悪的な描写は貶されるにしろ称賛されるにしろ注目されるものだ。とりわけこの国では、誰しも(セクシュアリティにかかわらず。つまり、シス-ヘテロ男性というマジョリティも!)男性の性的なしょうもなさを言い立てることが大好きなようだから*2。私の見るところこれには単純でない理由があるが、『ハネムーンサラダ』に関する別稿で述べているので今回は深入りしない。
しかし諸々のお色気シーンが強調されて、今回見たような二人の交流が日の目を見ないのは悲しいことだ。性の異なる(というより種からして異なる)存在が、互いに似ているものとして静かに関わっていく方法の描写は、25年経った今日でも(むしろ今日だからこそ)重要である。
2巻の有名なシーン以降、シンジとレイは沈黙の間に奇妙な連帯感を育てていくことになる。何でも詳細に話すようになったわけではないし、会話の情報量は著しく低いままだ。例えば8巻でシンジがエントリープラグ内から帰還しても、言葉だけを見れば二人は「また会えて良かった」との言葉を往復させるだけだった。淡白だなと突っ込みそうになるが、そうしたオウム返しを行うのが二人のやり方なのである。
シンジやレイのような口数少ない人が、ほとんど口を利かないままに真似しあい、失い難い関係を築いていく話を私はもっと見たいのだと思う。
*2 もちろん私も例外ではなく、かつては『メイド諸君!』等について熱く語ったりしていました。