LGBTQ+プライド月間で『Tell Me Why』が無料になっていたためプレイした。
https://store.steampowered.com/app/1180660/Tell_Me_Why/?l=japanese
物語の大枠としては、超能力を持っている双子のタイラーとアリソンが再会し、二人で親の遺品整理をしつつ過去の事件の真相に迫るといったものだ。しかし真相に迫るといっても、10年前に起こった事件の記憶は人々の中でさまざまに変わってしまっているために、「どの(誰の)記憶を信じるかを選択する」という場面がゲームの中にいくつかある。残された物体や文書をもとにプレイヤーが過去を解釈し選ぶことで、物語の結末が多少変化するようになっているとのことだ。
親を殺さなければならないと思い、その親が本当に死んでしまうということがもたらす喪失が子どもにとってどのような経験なのか、私は知らない。親子の関係の仕方や親殺しというものが持つ意味も時代や地域によって異なるかもしれない。ただ、その殺人がトラウマとして残り続けている描写は他人事とは思えず、チャプター3はプレイを中断しようかと思ったほどだった。
これだけの思いをしてトラウマを振り返るならば、その振り返りは新しい解釈の出現によって現実を変化させるために行われるべきだと思う。だから私は物語の最後の選択の場面で、より暴力的でなく家族想いのメリーアンが見出された過去の記憶を選んだ。しかし、正直迷っていた。アリソンのことを思うのなら、やはり錯乱し激怒していたメリーアンの記憶を選択したほうがよいのではないかとも思ったのだ。もしメリーアンが双子に危害を加える狂人でなかったとしたら、アリソンは「あれは正当防衛だった」と思えなくなるからだ。
この物語が教えるのは、親殺しの経験の正当化のために親をなにか強大で恐ろしい他者に仕立て上げることが十分に有り得るし、それは子どもにとって現実味をもっているのだということだ。そしてその幻想は少なくとも一時期はまったく宙に浮いたものではない。親が子を世話するということは、(親がどう思っているかにかかわらず)その子供の生殺与奪権に親が手をかけているということだからである。
親と子だけではなく、しばしば私たちは自分を正当化するために恐ろしく強大な他者を周りに見出す。そしてまたややこしいのは、その他者が自己にとってじっさいに強大である場合も多いということである。子に対する親のように、自らのほうが社会的に強い立場にありながらそのことに気が付かず、横暴と意識せずに横暴を働いてしまうことがある。マジョリティがその暴力性に無自覚な理由もこのあたりに存している。
強権的な親のいる実家を飛び出してアラスカの町にたどり着き、シングルマザーとして困窮しながら生きることになった彼女の人生を思うと、日本でもアメリカでも田舎の町で女性一人が経済的に自立して生きていくことがいかに厳しいのかを感じる。なぜ彼女は、子供を食わせていくためにあれほど際どいことの数々に手を出さなければならなかったのだろうか。そうした危ない橋を渡る必要がなければ、周囲とももう少しうまくやれて、精神的に追い詰められることもなかったのではないだろうか。
事件の責任の所在は本当のところ双子にでもメリーアンにでもなく(社会関係の貧しさも含む)貧困にあると私は思うのだが、この作品はすでにそれを物語の随所で示唆しているように感じられた。