「ぼくみたいなやつ」とは一緒に働けない(東浩紀『ゲンロン戦記』について)

2021/12/31

 『ゲンロン戦記』は、哲学者・批評家・経営者の東浩紀が、会社を立ち上げて以降10年間を振り返った本だ。

アカデミックな世界出身の東が俗世に出て自ら会社を回すようになるうち、「事務」の重要性を認めるようになる過程は、日々書類仕事に明け暮れる自分にとって既視感のあるものだ。とくに彼が躓き続けた経理は、取引の流れや商慣習を理解しないうちに任されるとたしかに非常に混乱する。消費者として小売店にふらりと訪れ、商品を選び、お金を渡してレシートを受け取って帰るという行動とは全く違う手続きが企業同士の取引では発生するが、これは大学の中にいるだけでは理解できないし、理解する必要もないことだろう。

ほかにも、仕事の全体像が掴めていないと人に仕事を任せることもできないとか、文化は観客がいないと根付かないから観客を育てることが大切だとか、いくつか納得できた部分はある。しかし、私がもっとも心打たれたのは、東が自らの「無意識の欲望」について自己批判する場面である。

「ぼくみたいなやつ」を集めたい

彼はそのデビュー時から批評の世界で生きてきたし、批評界隈もそこにいる仲間も好きだったのだと思う。だから当初から、彼らと一緒に会社を立ち上げて面白いことをやってやると考えていた。「ゲンロン」の母体となる会社もそのように批評界隈の内輪ノリからできたことを彼は認めていた。しかし、その「『ぼくみたいなやつ』(つまり書き物や東浩紀に興味のある男たち)を集めたい」という欲望が、東に共感する男性たちを呼び寄せてしまう。そうして集まってきた人は、東のことを慕っていても彼の会社に貢献する気持ちは薄く、結果的に会社経営にまつわる実務を投げ出してしまい、会社に混乱をもたらすのである。東はこのような失敗を幾度も繰り返していた。少し長いが、彼自身の言葉を引用しよう。

だからぼくはずっと、ゲンロンを強くするためには「ぼくみたいなやつ」を集めなければならないと考えていた。上田さんや徳久くんは大切な理解者だけれど、けっして 「ぼくみたいなやつ」ではない。だから彼らとはべつに「ぼくみたいなやつ」を入れようとして、大澤さんや黒瀬さんによる集団指導体制を考えるようになっていた。

(中略)でも、その欲望自体が最大の弱点だったのです。じっさい2018年には、まさにそこをついて、DさんやEさんのような右腕願望のある男性スタッフがまわりに集ってくるようになっていた。彼らは仲間にはなりたい。でも仲間になりたいだけだから、ゲンロンを支えてくれるとは限らない。むしろかき回し壊してしまう。 ぼくにはそのちがいが見抜けなかった。だから同じ失敗を繰り返していた。

(p. 220)

 この部分を読みながら思い出した本がある。北原みのり『メロスのようには走らない。 女の友情論』という本だ。これは著者が女同士の友情について様々な角度からエッセイ的に綴ったものだが、第2章に、北原が起業し店舗経営を行う中で、本の出版を機に知り合った女友達数名と一緒に働こうとしたという一節がある。結論を言えば、友達と働くという彼女の試みは失敗した。

でも実際に仕事をすれば、責任は対等には生じず、仕事の重さも平等ではなく、 命令系統として上下関係はどうしたって生じるものである。その上下関係に女友だちとして、どう向き合っていけばよいのか分からなかった。私は女友だちに対して躓いたのか、組織の論理に躓いたのか、どちらだったのだろう。どちらにしても、 熱狂した友人関係は、あっけなく崩れてしまったのだ。

A子さんたちがいなくなってから、私は基本的に友人や友人の紹介者は採用しないようにしてきた。仲良くならなくてもいい、人間関係が深まらなくてもいい、仕事を通じて互いへの信頼が深まっていけるように、と意識するようになった。 今は、スタッフが自分で判断できる自由と責任の重さと仕事の楽しさを、年齢に 関わらずどんどん体験し学んでいってほしいと思っている。女だからこそ、リーダーになれるような職業人に育ってほしい。そう思えるくらいまでに、私は「上下関係」を恐れなくなり、また、スタッフを職業人として育てることも私の仕事の一つ だ、と考えられるようになったのだと思う。 遅すぎたけれど、それが、A子さんたちから学んだことだ。

(p. 90)

 ここで北原が指摘する「命令系統」が、友達や仲間と働くときの第一の困難ではないだろうか。

対等性と命令系統

 どんな組織にも命令系統がある。言い換えれば、誰が何を判断できて、誰がその判断に従うのかがだいたい決まっている。すると友人の間の対等性という要素が、組織の中では仇となる。いちいち友人の判断に従ったりしなくても友人にはなれる。でも上司の判断に従わないと組織の一員にはなれない(従わないこともできるだろうが、その組織はいずれ破綻する)。北原のいう「仕事を通じて互いへの信頼が深まる」とは、友人として打ち解けることとは区別される経験なのだと思う。それは、顔を持つ仲間たちの間に、顔のない組織が「こうでなければならない」という論理をもって介入してくることだ。それは上司側も部下側も全面的に望むことができない、不承不承に受け入れるしかない悪だ。

 ゲンロン戦記の中でも、帰国した東が日本に残った3人の社員に「いますぐ棚を組み立てろ」と指示する場面がある(cf. p. 171)。彼がゲンロンの代表でなければ、たんに気の合う知人の一人であれば、そんなことを指示する必要はなかった。でもゲンロンという企業を続けるためにはそう命じなければならなかった。彼と社員たちがどんなに仲が良くて、思想的にも近くて、互いの才能を認めあっていたとしても、ちゃんと棚を用意して書類を整理できなければ会社は立ち行かないからである。逆に言えば、書類をきちんと整理することによって、彼らはたんに知人としてではなく同僚として「仕事を通じて互いへの信頼が深まる」ことになるのだろう。たしかに私は、書類の整理を馬鹿にする人とは一緒に働きたくない。その人が、書類整理を除けば思想的に非常に近く、安心して話せる素晴らしい才能のある人だったとしても。

 私は大学のとき、あるサークルの代表をしていたことがある。そのサークルはやっていることの大きさに比して人も資金も足りておらず、自分にそれだけの人望もなかったので、ときに活動が困難になることもあった。サークルのメンバーは私の一番の友人たちだったが、その友人たちに色々と面倒な業務を任せたり、資金が足りず彼らから集金したりすることにどこか気まずさがあった。頼んだことをきちんとやってくれなかったときに催促するのも嫌だった。その違和感が今回、輪郭を持ったように思う。仕事のような畏まった付き合いと、友人のノリが並存することの気持ち悪さ。仕事で付き合う人と険悪にしたいわけじゃないし、むしろ仲がいいほうがいいが、友人と仕事をするというのはまた別の緊張が持ち込まれる。

 そして問題のもう一つは、友人や仲間というものの排他性である。そもそも、その集団と他の人々とを区別するから友人や仲間は成り立っている。友人や仲間には、他の人たちとは違った特別な関心を払いあう。しかし会社を経営するときに重要なのは、むしろ社外の様々な人たちとの関わりであり、友人や仲間でない彼らの利益にこそ関心を払うことである。例えば北原の記述では、顧客へのクレーム対応や取引先でのプレゼンを軽視する友人たちに失望した彼女の姿がある。その失望は尤もなことで、内輪ノリを評価する顧客や取引先はいない。批評界隈の一部のように、顧客や取引先まで内輪であれば成り立つこともあるかもしれないが、東が痛感したように、一つの会社の経営にも非常に多様な業種の企業が関わっているものだ(不動産仲介、照明、清掃、インテリア、セキュリティ……)。こうした出入りの業者に敬意を払わない、関心を持たない人々の会社が、まともに存続できるとは思われない。(よく清掃業の方たちを見るからに軽蔑している企業人を見かけるが、許しがたい傲慢だと感じる。『ダイヤモンド・ライフ』を読ませたい。)

会社は誰のためのものか

ゲンロン戦記では、ゲンロンという会社が誰のためにあるのかについて、規範的な書き方をした一節がある。

ゲンロンはたしかにぼくがつくった。でもぼくのためのものではない。「ぼくみたいなやつ」のためのものでもない。ゲンロンは2018年の時点で、「ぼくみたいなやつ」が集まる内輪向けの空間よりはるかに大きくなっていた。
(p. 222)

 会社は「ぼくみたいなやつ」のためのものではない、つまり、ある一部の思想をもちある一部の業界に生きる人たちのためのものではない。それらを含んだもっと広い人々の利害に結び付けられてある。そのことに気がついて初めて、内輪向けの空間を相対化することができるのだと思う。

 私が大学を出てフルタイムの労働者となって以来、職場に、尊敬できる人ばかりがいたことは一度もない。口を開けば昔の話ばかりをし、仕事上の判断も気まぐれで、基本的人権の基の字も知らないような人がたくさんいる。異性愛中心主義者で、恋愛結婚が至上で、子供を生むことは国家への貢献で疑いなく素晴らしいことだと信じている人も本当にいる。私はそういう人たちととくに仲良くなりたいとも思わなければ、プライベートで関わりたいとも思わない。彼らは「私みたいなやつ」では全然ない。でも、ほとんどの人は私に仕事上で必要なことを教えてくれ、協力を持ち掛ければ応じてくれた。とりあえず、会社という組織の中ではそれでいいと思っている。ときに私も私的な政治信条について、自分の価値観を放言して場を凍りつかせることもある。今はむしろそのような緊張感があるくらいが当然なのだと感じる。私は私みたいじゃないやつと、私みたいじゃないやつを含む人々のために協力することができている。そして、私の所属する組織が、私だけのためのものでも、「私みたいなやつ」のためでもなく、だからこそ成立しているということを、渋々ながらも了承している。

 東も北原も、たぶん「ぼくみたいなやつ」だけ、同質性の高い(そしてジェンダーアイデンティティの一致する)人たちだけで働くということを夢見ていた。そういうユートピアを夢想する気持ちはとてもよくわかる。しかし、友だちになりたいという意志だけで一緒に仕事をすることはできないのだ。ただ、私は職場の人間関係には一切の親密さが不可能で不要だなどとは思っていない。最初は仕事上の付き合いだけだった人たちの中で、奇跡的に気の合う人を見つけられることもあるかもしれない。私もそういう経験がないわけではないし、そんなときは少しうれしい。内輪ノリ100%では企業にならず、かといって周囲の人に共感できる部分が全くなければつらいという、言葉にしてしまえばごく当たり前の話だ。でもその当たり前のことが、大学のサークルにいるうちにはなかなか身を以て理解できない。少なくとも私はそうだった。


 仕事の中にも親密性はある。そして、仕事上の付き合いはおそらく対等な友人関係よりも、しばしば非対称性を含む恋愛関係と融合しやすい。もはや時代遅れの感が強い「職場恋愛」という構図が、ティーンズラブやレディースコミックのなかで息絶えることがないどころか、ますます勢いを増しているのはなぜか。そこにはたぶん、仕事上の上下関係が、恋愛の中の上下関係と、公私の切り分けを超えて響き合うからだ。ただ、ティーンズラブやレディースコミックの恋愛は原則異性愛者のものなので、「ぼくみたいなやつ」が含意するホモソーシャル性とはややずれるのだが。ともあれ、仕事上で協力する同僚と、個人的心情のレベルでももっと深く交流できたらというしばしば満たされない願いが、職場恋愛ものには託されているような気がしている。これについてはいずれ考えをまとめたい。

新しい理想

 東は先の反省を経て、「『ぼくみたいなやつ』はどこにもいない」、自分の関心が自分だけのものであること、「自分が孤独であることを受け入れた」と語っている(pp. 223-224)。ひとりで本のような形を出してきた自分にとって、これは共感できる姿勢だ。SNSの通知欄や検索結果に現れた人に、「自分と同じ関心を持っているんじゃないか」と思ったのち、「やっぱり思っていたのと違うじゃないか」と勝手に幻滅した経験はもう覚えていないほどに多い。自分はとくに変わり者だとは全く思わないのに、どこにも「ぼくみたいなやつ」がいないことに今現在も苛立ち続けている(かつての東のように)。「ぼくみたいなやつ」を周りに集めたいという気持ちは私も昔からずっと持っていると思うが、もう半分以上諦めている。とくに、そういう人たちとただ知り合いになるだけならまだしも、一緒になにかしたいとは思わなくなった。むしろ社会的に意義のあることをしたいなら、「私みたいじゃないやつ」と、仲良くならなくともよく、友達にならなくともいいから、「仕事(つまり文章)を通じて互いへの信頼が深まる」ように関わりたいと思うようになった。

 『息あるかぎり私は書く』でも書いたが、私はこうしてブログに文章を書いて公開したり、個人誌を作ったりすることも、労働としては等価だと思っている。履歴書には書かないが、自分のこれは仕事のひとつであり、「趣味」とはあまり感じられない。すべきだと思うので、している。その仕事の目的は「私みたいなやつ」と関わることだとは今は思わない。結果的に、自分の分身であるかのような、公私問わない相棒となる人が現れたらそれはそれで理想的ではあるだろうが、そのような「究極の読者」と現実に出会うことはないだろうと思っている。その理想は思春期の頃から執筆を駆動する一番の要因であったし、これからもそうありつづけるだろうが、もはやそれだけを見据えて書くような切迫感はない。私は私みたいじゃないやつと、私みたいじゃないやつを含む人々のために協力し、「田原夕」の仕事を細々と続けたりやめたりする。具体的には、バックグラウンドも生きている地域もジェンダーアイデンティティも違う人の文章を読んで何ごとかを書き、通信事業者とクソ面倒な契約を結んでインターネットを使い、同人誌印刷業の方に迷惑をかけながら少部数を発注し、運送業の方に重い段ボール箱を運んでもらい、同人イベントの実行主体の方たちに用意してもらった椅子と机に座る。そして、私みたいじゃないやつを含む人々に文章を届ける。そのようにしているうち、友達でも仲間でもなく、東のいう「緊張関係がありながらもずっと見守ってくれる人」つまり「観客」ができたらいいなと思っている。私の新しい理想は、友と敵とを分けるパーテーションの下の隙間でひっそりと、私が書いたかもしれない文章の断片が埃のように漂っている風景だ。


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