吉田秋生『BANANA FISH』について

2022/01/07

この作品、ブランカを除いたほとんどの人間に感情移入ができないと思ったし、してはならないだろうと感じた。特に、アッシュや月龍など幼くして苦労しているキャラクターのことを哀れんだり同情したり、悲劇のヒロイン/ヒーローとして見たり、称賛したり評価したり、彼と彼の仲間との関係性に憧れたり素晴らしいと思ったりすることもできないだろうと感じた。いい大人がそんなことをしている場合ではない。

そもそもなぜ彼らは苦労人なのか? 特にアッシュが? それは私たちの社会が、児童虐待を止められない社会だったからだ。さらに言えば、この物語が描かれてから30年も40年も経っても、まだまだそれらを根絶できないほど、私を含む大人たちが役立たずだからだ。例えば私自身は児童虐待をしたことがなくとも、それを根絶しようとせずのうのうと暮らしているからだ。


極端なことを言えば、彼のバックグラウンドが悲劇として理解可能なままである社会は間違っている。児童虐待? なにそれ、昔はそんなことがありえたんだね、今じゃ絶対ありえないけどね、という距離がある社会であって正解だ(知られずに行われている、というのではなく)。そうなっていないのは大人の責任だ。「アッシュかわいそう」じゃねーんだよ、おまえだよ。おまえと私含むいい年した大人たちが何もできていないから彼は苦労したんだよ。

(息継ぎ)

同じ作者の『吉祥天女』もそうだったが、「BANANA FISH」を読んで、性暴力のもつ「人を深く傷つける力」がくどいほど強調されていたことに誰も気づかないのだろうか? かつて松浦理英子が指摘したように*1、そういう強調に危険があることも確かだ。でもそれが強調されようがされまいが、どれほどのものかは結局性暴力を受けた人にしかわからない。だとすると、作品を描いた人は、どうしてその力を克明に描くことができるのか? 性暴力被害の経験をフィクションの中で表現するとは一体どのような試みなのか? 考えを巡らせると恐ろしくなってくる。吉田秋生作品の中の性暴力、その毀損する力の凄まじさが、現実のどこからか引き継がれたものだと考えると。そしてそれが今も振るわれているのだと考えると。


マックス、ジェシカ、スティーブンなどの記者たちは、命がけで政府関係者などの児童買春の証拠を掴み、容疑者を弁明の場に引きずり出した。それでも、容疑者が社会的制裁を受けるに至るのかはまだわからないように物語では描かれている(18巻161-162頁)。公開当時から現代に至るまで変わらない腹立たしい状況を非常に冷徹に写し取った場面だ。大人の読者がかかずらっていて不思議はないのは、アッシュと仲間たちの関係性などよりも(その尊さ、温かさはきっと今の彼らだけのものなのだから、もう私が身を以て感じられはしないものなのだから)このスクープの消息についてのはずである。わかりやすい仇敵が退場しアッシュの因縁には一区切りついたのかもしれないが、大人たちの戦いはその端緒についたばかりで、まだ何の成果も出ていない。ゴルツィネ倒せてよかったね、アッシュが死んでしまって悲しいね、ではない。アッシュは死んでやっと開放された、などでも断じてない。彼の受けたような暴力をどんな子どもも受けずに済むような世界が実現する、そこまで行かないと、この物語がきれいに終わることなどない。少なくとも、いい年をした、大なり小なり社会に影響力を発揮している大人の読者にとっては。


このような自己批判をしている場合なのかもわからなくなってきた。自分の持った読後感から自己の信念を探りあてる、あるいはいい大人が当の作品を感傷の種にするため「だけ」に用いることに中指を突き立てる意味はあったかもしれないが、このような場でひとり書いているだけでは足りないこともある。私にできることをしなければならない。


*1 「女は男をレイプするか」(『優しい去勢のために』p. 294)参照。この文章を私が知ったのは、水上文のブログ「日記」の2019年6月19日の記事「性的に他人を害する"力"について」の中だった(このブログは現在非公開)。

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