ヤマシタトモコ「サタニック・スイート」について

2022/01/16

標記作品は、短編集『サタニック・スイート』の表題作。短編。

下記の記事の註10で知った。

https://www.webchikuma.jp/articles/-/2409

今日は時間がないので手短にいく。あらすじは省く。取り挙げるのはたった一言で、

「自分がかわいそうだと思っちゃだめで…誰も憎んでもだめだったら……
ど どうやって…

どうやってがんばればいいのかわかんないもん……」(100頁)という台詞だ。

私は高校生の頃ほとんどの時間をtwitter上で自虐を行うことに費やし、自虐それ自体についても拙いながらも考えてきた人間なので、「自分のことをかわいそうだと思う」こと、つまり自己憐憫にもわりと興味がある。

ところで、なぜ「自分のことをかわいそうだと思ってはいけない」のだろうか? 

この物語の展開(自分や他人のせいで色々切羽詰まってる人が無関係の他人を殺しそうになる)から答えるとすれば、自分はかわいそう、だから何をしても許される→自分を/すべてを殺す、という形で、イチかバチかの無差別殺人に結びつくからだろう。つまり、自己憐憫は自己や世界への無差別的な憎しみと表裏一体であるということだ。私にも思い当たる節はあり、自己憐憫の危険性に気づかされる。

しかし、ではどうすればいいのだろうか。冒頭の台詞を発する主人公・覚(さとる)は、あるいは、自分や他人のせいで色々切羽詰まってる人たちは。

カギとなる言葉だけは物語の中にある。覚を引き取ったおっさん(名前忘れた)は彼女のことを次のように宥める。なにか「もっといい気のもっていき方」があるだろう、と(100頁)。

私が疑問に思うのは、かりにその「もっといい気のもっていき方」があるとして、それを人はどのように見出すことができるのか、それは自己憐憫を経由することなく見出すことが可能なものなのか、ということだ。しかし、この物語は私の問いに答えてはくれない。それはたぶん私がこれから考えていかなければならない。

こういう、宿題を出された気分になる作品に出会えることは最近あまりない。読めてよかったと思う。

4063878155

QooQ