『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(アニメ版)について

2022/01/31

以下、当の作品は『俺ガイル』と表記する。数年前に第2期まで観ていて、今回3期を観た。その都合上、終盤への言及が多くなる。

視聴後、作品名で検索して色々なブログを見たが、独特のハイコンテクストな台詞回しのせいか、キャラクターの心理をめぐる考察がたくさん見られた。すると、もうその分野については自分が屋上屋を架す必要はないなと思った(解釈違いで揉めたという話も見かけ、それが怖いなというのもある)。


最初に思ったのは、ギデンズの『親密性の変容』みたいな結末になったな、ということだ。といってもちゃんとその本を読んだことはないので、あるのは漠然としたイメージだけれども。地縁や血縁のくびきから解放された人々は、「その関係を求める」ということだけを根拠に、他の何によっても基礎づけられない親密な関係を築く。で、その関係を求めたり求めなくなったりすることに応じて、いろいろな人と関係を結んだり切断したりする。

ところが、その関係を作ったり維持したりすることがうまく実践できない人々がいる。あるいは実践することは一応できるが、めちゃくちゃに疲弊するので乗り気になれない人々がいる。これがつまり比企谷みたいな人だ。そういう実践の巧拙によっていわゆるスクールカーストみたいなものも出来上がるわけだが、今回はあんまりスクールカーストの話はしない。ともかく、部活というきっかけがなくなれば、雪ノ下とは知人や顔見知りですらなくなっていくだろうという確信が彼にはあった。「見かけたときに少し挨拶をして世間話をして、たまに連絡をとって会ったりしていれば関係は続く」(3期11話)だろうが、それが難なく出来たら比企谷は比企谷ではないだろう。学校という空間で、ちょうどいい距離で関係を継続することの難しさ(と鬱陶しさ)。

それでも、相手との関係がなくなるのが嫌ならばどうするか。ちなみに、彼氏彼女の関係になるという選択肢は彼にはなかった。仮にそうなっても、結局「見かけたときに少し挨拶をして世間話をして、たまに連絡をとって会ったり」することになるだけで、やることは変わらないからだ(恋愛の諸規則が頭にちらつく分、より面倒かもしれない)。そもそも、そういう「恋愛脳」からかたくなに距離をとり続けるのが彼の差異化戦略であり、この作品が他のラブコメと差別化を図ろうとした点だったはずだ。

そのままなら関係はフェードアウトしてしまい、でも関わりたい気持ちはあるのならばどうするか。そのとき、彼は恋人関係になることに代わる何らかのお題目を、彼女と共同してやることを発明し企画する必要に駆られる。3期11話の合同プロムの蒸し返しは、そういう事情から行われたことなのだと私は思った。


関係への意志

「義務じゃなくて意志の問題だ」(3期11話)と比企谷は言った。「関係への意志」がなければ関係は消えてしまう。それは確かにそうなのだろうが、少なくとも今の私は、そういう切迫感がしんどいと感じた。もちろん、合同プロムがおおむね成功に終わったように、関係を続けるために何かをしようとし始めさえすれば、単にその目的を果たすだけではない予想外の喜びが生じてくることもある。私はその価値自体は全力で肯定する。もし自分が比企谷くらいの歳の人に何かアドバイスする機会があるなら、とりあえず何でもいいからやってみればと言うだろう。しかし最近の自分に引き付けてみれば、人との接触を制限しろと(あるいはそんな忠告は無視しろと)毎日喧伝される中で、そしてほんのわずかしかない社会人の余暇の中で、数少ない知人に連絡を取り、何か共同してやることを絶対にやってやろうという気が起こらない。得体の知れない流行病が出現している時期ではなく、かつ今の4倍くらい知人にも自分にも余暇があったら、あるいはもう少し積極的になれるかもしれない。でも今はそうではない。関係への意志なんて頓挫するのが当然ではないだろうか。

最近の私は、「関係への意志」なしでも継続する関係を考えることはできないのかと夢想したりする(血縁や職場の関係を除いて)。あるいは、関係への意志が義務感やめんどくささに取り巻かれていても、それが関係にとって危機ではないような事態を考えたいと思っている。惰性で続くような関係。いたりいなかったりする関係。平塚がいう「距離が空いても時間が経ってもひかれ合う」(3期12話)関係はこれに近いだろうか。ただしそれを構想できたとしても、実際の相手との関係がそうなっているという確証がどこかの時点で得られるというわけではないだろう。だから比企谷は「ずっと疑いつづけます」(同)と平塚に返すのかもしれない。ただ、疑い続けるのに疲れたらどうなるの? と私は彼に問うてみたい(結婚でもするのだろうか?)。


奉仕部が存続する意味

物語の結末で示唆されたのは「奉仕部」の存続だ。これは結局、親密な相手、知人、顔見知りの関係が続くには、ある種の「たまり場」が必要だということを示唆するのだろうか。すると、そういうたまり場が廃止されたり、解体の圧力をかけられたりする状況下ではどうすればいいのか(地下に潜ってこっそりやるか?)。あるいは、最初からそういうサードプレイスを持たない人は、そこに参画する暇も地理的優位性も持たない人はどうすればいいのか。なんでもリモートで、SNSでやっとけと言われ、その作法に習熟できない人たちは取り残されるのか? 私はこの点に大いに疑義がある。


「共依存」という言葉の用法について

雪ノ下陽乃というのは何か色々と物語に動かされている感じのしたキャラクターだったけれども、彼女が比企谷・雪ノ下(妹)・由比ヶ浜の関係を指して「共依存」と呼んだこと(3期4話)は、なんだかピンと来なかった。比企谷はたぶん陽乃に言われたことが図星だったからそれを気にしていたんだろうし、ということは共依存という言葉だけで彼女の言わんとしたことが分かったんだろう。そして陽乃と比企谷の間で共有されていた共依存という言葉の意味を前提としながら、考察者の方たちもいろいろと読解を試みている。しかし私はそもそも、「共依存」って言葉の指すところ広くなりすぎじゃない? と思ったのである。

このスライドでも言われているように、2期終盤~3期における彼らの関係は、かつてなら「優しい関係」と呼ばれていたようなものだった。関係を結んだり切ったりする自由が彼らにはあり、またその関係の中でさらに個別に隠された関係を持ったり持たなかったりすることができる。その自由は自分だけにではなく相手にもあり、各員が相手の出方をうかがって、最もいい形で行動しようとする結果、バレーボールのお見合い状態のように互いに身動きが取れなくなる(2期13話)。あるいは核心を避けた雑談に終始する。そこにあるのは徹底した相手への配慮、というより関係への配慮だった。「ダブルコンティンジェンシー」とか「共謀的collusiveコミュニケーション」とかいう言葉を想起してもいいが今回それらはどうでもいい。これをもし共依存と呼ぶなら、この国の大抵のクラスメイト達は共依存だということになろう。2期13話でお見合い状態になるのは雪乃が他人の猿真似しかできないからなどではなくて、彼らは彼らの関係をどうしようと自由だから構造的にそうなるのだ。私だろうと比企谷だろうと由比ヶ浜だろうと躊躇するのは同じだ。

別に言葉の意味なんて変わっていくものだし、もともとアルコール依存症者とその配偶者との関係から生まれた「共依存」という臨床心理学っぽい用語が社会の中に浸透して(「アイデンティティ」がそうだったように)広い意味で使われるようになったんだろうな、という想像はできる。ただ、あくまで自分の思う共依存はその中に圧倒的な非対称性を含む「2者」関係だ。そして何より、共依存だと指摘されたくらいの事でどうにかなりはしないものだ。ある誰かへの配慮が、世間の常識に悖ったり、文字通りの「第三者」に快く思われない場合であったりしても、「共依存」の中の人たちは「これでいいんだ」と居直って何も変わろうとはしない。もしその関係に水を差すような第三者が現れたとしても、「大切な相手」以外を最終的には切り捨てて耳をふさぎ、二人だけの密室を作ってしまう。お見合いなんかする余地はない。『俺ガイル』の登場人物は誰も、第三者に対して「あんたなんか〇んじゃえばいいんだ!」(@アニメ版の芙蓉楓)とは口にしないだろう。彼らは周りが見えすぎなくらい見えているし、正気である。共依存と言われて、(法に触れない方法で)関係の改善を考えるくらいには建設的である。「彼らの青春ラブコメは『まちがって』なんかいない」と私は思った。彼らは歳に見合わないくらい真っ当な言動をする人間たちだと私には思えた。

私はかつて、「正気じゃない」共依存をどぎつく演出するアニメばかりを見ていた頃があった。実際にそういうことを体験したい、というわけではなかったと思う。まあ画面の中でくらいそういう異常なものが見れても新鮮でいいよな、くらいの気持ちだった。正気で建設的な話や体験は学校生活の中でうんざりしていたので、私がアニメに求めていたのは、過剰なもの、行くとこまで行ってしまったもの、ある意味イカれたものだった気がする。でも、いつの間にかそういう正気じゃないアニメは作られなくなっていた(少なくとも、現代の学園生活が舞台のものに関しては)。おそらくそれと並行するように、「共依存」という言葉の禍々しさも減じて身近になっていったのだろう。


『俺ガイル』のようなラノベを原作としたアニメと、ラノベという言葉すら一般的ではなかった時代のアニメを比較することにはそもそも無理があるかもしれないが、きっともう学園物アニメの中で「これはちょっと救いようがないな」と思われる人やその表現が前面に出てくることはないような気がする。ただその意味で気になるのは陽乃という人物の来し方と行く末である。細切れにしか出てこない人物なのでいちいち言動を追うことはめんどくさくてよく把握していないが、彼女が何らか過去の鬱屈を引きずっていて、だからこそ高校生たちに絡んでいること位はわかる。そんなことに執着してないでキャンパスライフを謳歌*すればと思いもするが、彼女が雪乃たちに執着することになってしまった、そうしなければならなかった背景があるようなので、機会があればそれに注意を向けてみたいかもしれない。


* 刊行されている外伝では、彼女は留学を決めて日本を離れるそうである。

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