『めぞん一刻』(小学館文庫版)について

2022/02/28

 漫画関係の評論でたまに言及されることがあり、ずっと読みたいと思っていた。

 割と知名度のある話なので、夫を亡くした若い管理人と年下の男が結ばれる物語だということは知っていた。しかしその物語が進展するのは1巻と9~10巻くらいで、間の巻はずっと凍結されたまま無理に引き伸ばしている印象も受けた。

 ただ、この引き伸ばしこそがラブコメというものなのかもしれないと思う。音無響子と五代裕作の物語がなかなか終わらないのは、どちらも決断できない状態にあるからだ。前者はテニスクラブのコーチを務める三鷹という男と再婚しようかとも考えているし、後者はバイトで知り合う七尾こずえをはじめ、様々な女性から関係を仄めかされて断れずになんとなくいい顔をしてしまう。いまもラブコメとして似たような構図の作品は生まれ続けているだろう。「決断できない事情」は様々に変わるだろうけども。


身体的な接触の表現について

 「確かなものが何もない」と作中で言われる二人の関係が時々足掛かりにするのは身体的な接触だ。それはまあ現代のラブコメでも同じだろうが、そのとき描かれる響子の心境が「あたしは 楽になりたいの…」(10巻6話)とか、「少し、 すっきりした…」(9巻17話、まったく嬉しそうではない)など、絶望的というか、年貢の納め時が来たというか、哀愁に満ちていることが非常に印象的だった。これは近年のラブコメ、TLなどを見ても類似のものは見られない表現で、なぜこのような表現がなされたのかをよく考えておきたいと思った。


「ダメな部分」を冷めた目で見ること

 この作品には、人の「ダメな部分」を責めるでもなく肯定するでもなく、冷めた目で捉える視点が一貫してあると私は感じた。ここぞというときに上手くいかない、あるいは、言い訳ばかりで結局行動が伴ってこない、気持ちがついて行かず明後日の方向に行ってしまうという、たぶん誰にでもあるダメな部分を。

 たとえば1巻、模試を控える五代に対して住人たちは酒盛りをしながら「こうやって騒いでいれば、模試の結果が悪くても言い訳ができるでしょ」と笑う。人の(ここでは五代の)ダメな部分がどのようにして成立するのかを理解したうえでなければ、このような発想自体が出てこないはずだ。

 私は昔から勉強しようと思って掃除を始めてしまうたちだから、この「ダメさの現象」のことがよくわかる。ちゃんとやることができなかった言い訳を提供する何かがあれば、そちらに走ってしまう。なおこの際、「ちゃんとやればやっただけ結果が出る」ということを信じていない場合もあれば、信じている場合もある。しかし、どちらにしても自分がちゃんとはできなかったと歯痒い思いをすることに変わりはない。

 あるいは、進路でもなんでもいいが将来に関わる事柄を決めなければならないとき、私は人に相談するのを躊躇ってしまう。他人に言われてそれを選んでもし後々良い結果にならなかったら「あんたがそうしろって言ったから」とその人を恨むことになるのではと思うからだ。しかし、それほど強くやりたいことも得意なこともない自分が進路など考えたところで何も出てこないのは明白であり、自分を軸にしたから後悔しないとか、良いものを選べるなどまったく信じられもしなかった。こういう、欲望の他者依存性について作品が自覚的なのはよくわかる。五代は響子のために保父になろうとしていた、という住人達の指摘に、「そーゆー仕事の選び方って おかしいんじゃないですか?」(9巻10話)と響子は返すからだ(ただしそう言う彼女も、亡くした夫の家との縁を維持するために、強制されてもいない一刻館の管理人を引き受けたのだが)。

 通常、自律的にすべきことができないこのようなダメさの成立過程を他人に対してくだくだしく説明してみせる人はあまりいない。だいたい誰しもダメな部分はあるが、実際問題、全員が全員「ダメ」だと組織とか家政とかを成立させている信用が揺らぐので、ダメさはできるだけ見せないことが人としての基本になっている。ダメさの成立過程に言及することは言ってしまえば反社会的である。学生は「全然テスト勉強してねえわー」と放言して本当に結果が悪かったら落第するし、雇われた人が「まったく接客マニュアル覚えてませんねー」と言って本当にできなかったら首になる。組織が求めているのは言い訳(ダメである事情)よりも結果であって、わざわざ前者を提示してみたところで公式に得になることは何もない。

 しかし私は昔から、人のダメさの成立過程をあえて隠さずに描くのが小説だと思ってきた。私は小説の中でダメな人間が出てくると、自分のダメさを棚に上げて「ばっかだなあこいつ」などとヘラヘラしながら読んでいく。例えば国語の教科書に載ることが多い『少年の日の思い出』『舞姫』『こころ』などの小説はバカな主人公がバカなことをするだけの話だが、「ばっかだなあこいつ」とヘラヘラしながら読む以外の楽しみ方があるのだろうか? そんなことは時間の無駄だと言われたら私は返す言葉がない。むしろそういうことがそれなりに嫌いではない人でなければ、わざわざ小説など読まないのではないかと思う。

 一刻館の住人たちは、小説を読むように五代に接する。彼がどれだけ「ダメ」であろうと、それを責めもしなければ全面的に受け入れもしない(どちらかというと彼がダメであることを促進する面もある)。ただ彼が落第しようが無職になろうが、本質的に住人たちの人生が脅かされるわけではないので、一歩離れて見守ったり賭けのネタにしたり飲みの口実に使ったりできるのである。小説の登場人物がいくらバカなことをしようとも読者に危険は及ばないから面白がれるのと同じだ。

 しかし響子は五代と小説を読むようには向き合えない。彼が試験前日に酒を飲んでフラフラすることになったら、「もう少し真面目にやったらどうです」(9巻10話)と叱りつける。彼女がそうする理由の一つは、彼女の利害は五代の浮沈に結びついてしまっているからだ。つまり彼が落第したり失職することは、響子にとって再婚相手の選択に関わることなので、小説の中の出来事でも他人事でもないのである。彼女は五代に「あなた自身の問題でしょ!!」(同前)というが、本当に彼自身の問題であれば叱咤の必要もビンタを食らわす必要もないわけで、そうするほどには彼女は彼の問題をすでに引き受けているのである。

 他方で響子は、五代が状況に流されて本来やらなくていいことをやってしまっていることについて、「五代さんらしい」(9巻2話)と、ある種の諦念をもって見る視点も持っている。この前後の、ホステスから子供の世話を押し付けられる展開からもわかるように、彼の愚かな点、流されやすさは、人の苦境を放っておかないという美徳でもある。もし五代が「それは自分の問題じゃないので」という形で厄介ごとを切って捨てていくことができる人間であれば、響子は彼と一定以上のかかわりをもとうとは思わなかったのではないか。五代が醸し出すダメさと分離できないヌルさを響子もまた面白がれるようになるというのが、物語の趨勢だったように思う。


情報の不均等・間の悪さ・運の悪さ

 そもそものことを言うと、この作品や他のラブコメの登場人物が愚かなことをしているように見える背景には、それぞれの人が少しずつ誤解をしていたり、間が悪く会えなかったり連絡が取れなかったり、逆に居合わせてほしくない人や物につかまってしまったこと等がある。つまりは情報が全ての関係者に即座に均等に伝わるわけではないことや、運の悪さが関係している。このような要素と、それぞれの人の行動の傾向、どちらにどれだけ軽重をもって事態を考えるかは難しい。例えば五代が周りに流されやすいキャラクターであるのは確かでも、彼が巻き込まれる苦難は彼の意志の弱さだけが原因で、彼一人の責任だというのはたいてい不正確だ。現に自分の意志をはっきり持っているように見える三鷹でさえも、間の悪さや誤解によって意図しない行動に傾いてしまうことは避けられなかった。その最たるものが、彼と九条明日菜との婚姻だった。

 たとえ自分が意図した結果にはならなくとも、流れでそうなってしまったことであっても、嘆息して柔らかく笑う三鷹の姿(9巻14話)は、「五代さんらしい」と息をつく響子の姿と重なる。ここには、情報の不均等や運の悪さ・間の悪さに身を浸し、割り切れない気分でいながら、自分も他人も恨みはしない、運命を他人事のように面白がれる明るさが胚胎しているのである。


(文中で示す巻数と話数は小学館文庫版のものである)

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