『true tears』について

2022/04/21

2008年のアニメ作品。

観るのは二回目になる。本ブログのほうで記事を書いた『SHUFFLE!』に続いて、同時期くらいに観ていたアニメを見直したくなって観てみた。結論としては非常に楽しめた。


近親姦的な構図

とくに前半では、慎一郎の母が息子に向ける視線は恋人に対するそれである。おそらくこれは私の勘違いではないと思う。証拠を一つ挙げるなら、慎一郎の友人・三代吉は彼の弁当(母が作ったもの)を見て「(慎一郎の母が)(慎一郎に)気があるってことだろ」と揶揄うからだ(第2話Aパート)。この発言は彼女が実際にそうであることを意味しないが、視聴者と慎一郎に対してそのような解釈を提示する効果は発揮している。そして前半の慎一郎は比呂美の扱いや自分の進路への干渉も含めて、露骨に母と衝突することになっていく。ここには、示唆された近親姦的な構図への恐れもあるような気がする。

また、もし近親姦的欲望を慎一郎の母に仮定するなら、中上家の内部で慎一郎母が比呂美に対して与える仕打ちは、たんに性格の不一致ではなく、恋人(慎一郎)を奪うかもしれない相手への憎悪と解釈されることになる。


投影同一視

比呂美のことを、腹黒だとか、陰湿だとかいう人たちの姿を見たことがある。彼女は場合によってはヤンデレという分類をされることもあった。私がこの作品を見てみようかと思ったのも、そうした評判を聞いたうえでの怖いもの見たさによってではあったし、人物を何の属性でも括ってはならないという形而上学的要求に付き合う必要はない。特に自分の身元を明かしてもいない私が言うことでもないが、属性が人を開放したり新しい次元に導くこともある。しかし、鑑賞者がキャラクターをそうした属性で括ることによって、他のキャラクターは、そして鑑賞者の我々はそうした人々とまるで似たところはない等と考えるのは間違っている。

作品の中をよく見てみれば、誰もが相当程度に陰湿であり、他人を操作して方向を変えようとする攻撃性と無縁ではありえないことがわかる。いい大人でさえ、親密な人が自分のほうを向いてくれない事態をなかなか認めることができず、人を操作したりけん制したりする。それで操作されたりけん制される側である人も、また別の人に対して、操作したりけん制したりしている。

被抑圧者が抑圧者に似る。たとえば比呂美と慎一郎の母は、ある同性を「ふしだら」とラベリングする攻撃性によって鏡映しになる。このことを比呂美は認識するに至る。

「私…同じこと言ってる」(第8話)

ただ、このような投影同一視は、他人を自分とそれほど似ていないわけでもない存在として認め合う契機でもある。十分に尺が取られているわけではないが、学校から帰った後の慎一郎母と比呂美とが、ある音楽CDを前に、両者ともそれを好んでいる(いた)ことを確認する場面がある(第8話Bパート)。ここに、趣味の類似が共感によって全ての差異を乗り越えるという楽観主義を見ることまではできないが(昨今、とくに音楽の好みは細分化され過ぎてそんな余地もないように思える)、モノやそのモノの体感によって、似ているとともに別個である他人を感じることはできるかもしれない。二人の女性のエピソードには、そうした希望を感じるところがあった。


貞潔さの要請

少し話は脇道に逸れるが、そもそも、気が多そうなこと、多くの異性を惹きつけいい顔をすることの指摘が相手への攻撃になるのは、それを汚らわしく見るべきだという規範を女性たちが(そしてときには男性も)共有しているときである。その「貞潔さの要請」は個々人の感性の問題というより、家父長制の自然な帰結でもある。

しかしまあ世界の全員がそうでなくとも、少なくとも恋人に貞潔でいてほしいという願いは、めちゃくちゃ雑に一般化すると、親密な相手に自分に専心してほしいという要請から切り離せない。この要請はおそらく自力では生きられない乳児のころから始まっている。乳児は(たいていの環境では)親に放置されるとかなりの高確率で死ぬ危険があるので、親に自分に専心してくれることを命がけで求める。もちろん成長して乳児ではなくなった人間は親にだろうと恋人にだろうと見捨てられてもすぐ死ぬわけではないので、この要請を忘れたり非現実的なものとして遠ざける努力はできるだろうが、まったく無縁に生きられるとは思えない。もしこの要請と終生無縁で生きてゆきたいなら、特定の親に生まれて最初の数年間つきっきりで育てられるという経験自体を否定しなければならず、老いて死ぬ時も、誰か特定の人に世話を求め続けることもない。そうなるためには小手先の変化では済まない。子どもは共同体全ての人の子どもであり、共同体の全員がその子の親であるみたいなコミュニティが作られる必要がある。逆に言うと、そういう体制で子どもが育てられている社会なら、親密な相手に専心しなければならないとか、恋人に貞潔であって欲しいとかいう願いはあまり真面目に流通していないのかもしれない。

ただ、現代日本がそのような社会ではないからといって、恋人に貞潔でいてほしいという願いを持ち出せば恋人への横暴も正当化されうると言いたいわけではない(そういう横暴にはデートDVという名称がある)し、人がある人のケアをするための資源は有限だということをいくら強調してもし過ぎることはない。


想像的同一化

物語に幼馴染が登場する場合、幼少期の関わりが描かれることはよくある。比呂美と慎一郎にもその手のエピソードは一つあるが、それが今回の視聴で奇妙に引っかかったものでもある。

以下のエピソードは第3話Bパートで詳しく描かれる。比呂美は、かつて地元の祭りの途中で慎一郎とはぐれてしまい、心細くなりながら一人で走る。その途中、履いていた下駄の片方を無くしてしまう。ようやく慎一郎と合流したあと、彼は比呂美が片方裸足で走ってきたことに気づいて、ある奇妙な方法で移動する。幼い慎一郎は、あえて片方の下駄を脱いで手に持ち、比呂美と同じように片方裸足になって、夜道を歩いていった。

もちろん、なくした下駄を暗い中で探すことも、それほど体格の違わない相手をおぶって歩くことも、慎一郎にとって現実的ではなかった。しかし、彼が取った行動は単純に考えると馬鹿げている。どのみち下駄を脱ぐならば、自分で持たず比呂美に貸せば足の4本中3本は裸足で地面を踏まなくて済むだろう。それでも彼は、比呂美と同じく片方裸足になって歩くことを選んだ。彼女と想像的に同一化することを選んだ。

二人の親しい人間の間で寒いときによく行われる行動は、マフラーやら上着やらを相手に与えることだ。あるいは与えられるものが何もないなら、身を寄せ合うことで体温によって互いに温まることも一応はできる。しかし前者は結局、与える人と与えられる人に差をつくり、与えられる人に負債を負わせる取引でもある。後者は通常誰にでもくっついてよいということにはならないし、四六時中身体をひっつけて生活するわけにもいかない。温かさを共有することができないとき、自分も相手も苦境への特効薬を持っていないとき、痛さや冷たさを真似し合うことでコミュニケーションが図られる場合がある。それはごく一部の特殊な人たちにだけ訪れる狂気などではないし、大騒ぎするほど珍しい事態でもない。年齢も性別も関係がない。例えば自らの近親姦的欲望とその禁止を比呂美に分け持たせた慎一郎の母、「兄妹かもしれない」という恐れと禁止を慎一郎に共有させた比呂美。本命ではなく、その近くの人に近づこうとしたことで通じ合う愛子と比呂美。言ってはいけないことを言ってしまう不如意の中で互いを結びつけた比呂美と石動純。それ自体はいいも悪いもないことだ。ただし、その痛みの真似し合いが、「本当に好き同士ではない」無理のあるつながりとして廃棄されるのか、似ているが同一ではない相手との相互承認に向かうのか、そのような他人であるとわかったからこそ意識的に関わっていくのか、いかようでもあり得る。


一人暮らし

この話では、比呂美が一人暮らしを始める。『SHUFFLE!』もそうだが、独立のための転居は物語の終盤にはよくある変化だと思う。ただこのアニメで、中上家にいた頃よりもずっとのびのびと生活する彼女の描写は、当時学生で実家にいた私にとって、一人暮らしへの憧れを喚起するものだったかもしれない。

私の母には慎一郎の母みたいなところがあった。その献身がなんとなく本能的に怖かったので逃げたかった。今回それを思い返して、本当に一人暮らしをするべきなのは慎一郎だったのではないかと思ったりもした。まあ仕送り等をもらっておいて別のところで生活するのを一人暮らしと呼べるのか、それで親から自立したことになるのかは怪しいけれども。しかし、慎一郎は親との関係において何か変わったのだろうかとも思った。母親のほうは明らかに変化したことが描写されていたが。


「嫌」

第13話Bパート、慎一郎に「付き合おう」と言われた直後の比呂美の台詞(2回言う)。文脈も人物の年齢も全く違うが、何となく次のコマが頭をよぎった。


二宮ひかる「ナイーヴ」21話、1998年。

こうした発言に対してヘタに一般化や深入りすると、言葉のツラと言葉が表すものの関係の迷宮に入り込むのでやめておく。重要なのは、こうした拒否を投げられるだけの関係があるということ(ある事態を気ままに拒否する難しさと、ある事態を気ままに要求する難しさは同等ではない)、その拒否になんらかの弁明をする必要もないということである。その関係は、私としてはある意味で羨ましくもある。


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