『マクロスF』について

2022/05/18

作中で三角関係があると知人から聞いて興味を持ったので観てみた。SF戦記物をアニメで見るのがほぼ初めてだったが意外と面白かった。

主人公のクソさ

いきなり罵倒から入るが、本作の主人公・早乙女アルトは私が今まで見たアニメの中でも指折りのクソ野郎だと言わざるを得ない。その理由はいくつかある。

第6話で、ランカから「一人で?」と聞かれた際、彼は「ああ」と呼吸するように嘘をつく。彼はこれでシェリルとの実質デートを隠しおおせたと思うわけだが、これは思春期男子にありがちな「軟派と思われたくない」という無意味な虚勢である。なぜランカがその点にこだわったのかを考える気が彼には一切無いようだ。

他にも、彼は父にただ反抗するだけで、父親が一人の人間として何を考えているかという問題の立て方をしない。対照的なのがアルトのライバル的な同級生(?)ミハイルで、彼はそういう問題の立て方を知っている。第6話でランカが「父が勝手なことばかりするから自分も好き勝手にする(要約)」と駄々をこねたとき、「隊長(ランカの父)がどんな思いで戦っているか知ろうともしないで、よく言うよね」と皮肉るのだが、こうした台詞はアルトからは決して出なかっただろう。

アルト、ミハイルは両者とも違ったベクトルで無駄に口が悪いが、常識的に考えてどちらが信頼できる相手であるかは明白だ。その場しのぎの嘘で自滅的に信頼を無くしていく前者よりも、心象を悪くするリスクを取っても視野狭窄を指摘してくれる後者のほうが誠実に決まっている。

また、これは難癖だが、待ち合わせをすっぽかしておいて友人にプレゼントだけ受け取ってもらうというのは、人を馬鹿にしているとしか思えない(第11話)。メールがある時代なら行けなくなったと一報入れておけば済む話だし、他人の時間を何だと思っているのか。申し訳ないと謝ることをも人に任せるという図々しさは見上げたものだ(勿論、これはあの場所にランカを行かせる演出上の都合だと理解してはいる)。

ただ彼をわずかに擁護するなら、やたらとシェリルと接近しているところにランカが飛び込んでくるという偶然によって、二股掛けてんのか?という疑惑が膨らんでしまうのは三角関係モノのお約束であり、そうした疑惑の100%がアルトの資質に依っていたというわけではない。それでも、21話でランカが「さよなら」と告げてアルトの元から飛び去るとき、私は残念と思うどころか「いいぞ!」と思わず快哉を叫んでしまった。こんなくだらない男の茶番に付き合うよりは、生き別れの兄と宇宙旅行でもしてた方が随分マシだからである。

空気かつモラトリアムな主人公

アルトは主人公でありながら、物語の中でもほとんど重要な働きをしていた気がしない。機体の能力とバジュラへの対抗力ではブレラに負けているし、ルカやミシェルのような一芸もない。協調性はむしろマイナスだ。バジュラの実態やシェリルの病、政治情勢についても何も情報をつかめず蚊帳の外なので、視聴者としては「なに今更そんなことでショック受けてんだ?」と彼の反応に戸惑う羽目になる。主人公ならもう少し実のある情報をつかめよと思いもするが、その役目はオズマ、ルカ、クランなどに総取りされアルトには何も残らなかった。彼は例えば『エヴァ』の碇シンジ等とは違った意味で弱い主人公だと思うのだが、不思議なのは、彼は自分には何もないとは全く思っていなさそうな点である。そのくせ他人の失敗に対する文句は一丁前で、誤射しそうになったミハイルを罵倒して逆に彼のトラウマを刺激したり(第9話)と、人の地雷を踏み抜くのが特技なのだろうかと思ってしまう。

作品を通してほとんど活躍の場がなかった彼だが、最終戦でちょっと活躍するくらいで、わかりやすい変化が訪れていた気がしない。例えば「女に間違われる」ということにあれだけ嫌悪感を覚えていた彼の性的なアイデンティティは結局どうなったのか(そもそも女に見られるのが嫌なら髪型変えた方が良いのでは)。このような「自分は十分に男らしくない」と感じる男性は結局「強い男性」を理想としているのであり、女性との関係で急に威圧的に振舞い問題を起こすことが多い。しかし彼がその男性性コンプレックスに向き合った形跡を探すことは困難だった。

また、彼は「空を飛ぶことが好き」というくらいの動機と、父への反発として軍人に転身したわけだが、そのくせランカに対して演劇論の引用でドヤったりと、都合のいいところで演劇のキャリアを持ち出してくる。「趣味で戦争やってる」(ミハイル)と言われても仕方がないのではないか。この軸のブレ具合は結局、父親との確執に一段落をつけていないことに由来している。アルトは「のらりくらりと状況を生きてしまえる」ということを兄弟子に指摘されたこともあるが、彼はそう言われて「それでいい」と居直ったのか、「そんなことはない」と示したのか、まったく記憶にない。作品の結末の何となく尻切れトンボな印象は、三角関係の未決というよりも、主人公のモラトリアムが終わらなかったことに存するのではないかと思っている。

三角関係

先に述べたように、三角関係の進み方自体は数々のお約束を踏まえていて、その分娯楽として普通に楽しめるものであったとは思う(途中までは)。

私は先ほどランカに対する主人公の非道な仕打ちをいくつか指摘し、彼女が彼のもとを離れることに快哉を叫んだと言ったが、三角関係の一辺を支持しないからといって、他の一辺を私が支持しているということにはならない(恋愛シミュレーションゲームのオタク用語で言い換えるなら、私はランカ√の支持者でもシェリル√の支持者でもない)。

そもそも、誰かに助けたり助けられたりされたことがあるからといって、必ずしもその者と恋愛関係になるわけではないし、ならなくてはいけない道理もない。本人がそうなりたいならなろうとすれば、と思うけれども。人を何か一回救ったり一回救われたりするよりも、長期間、他人と一緒に生活をしていくことのほうが負担が大きく試されることが多いのではないかと思う。だから恋愛かどうかはともかく、シェリルがアルトと共同生活を始めた時点でその関係はある程度決着していて、もはや三角関係は成り立っていないのではないかと私は思った。最終話で「俺たちの戦いはこれからだ!」みたいな雰囲気になるのもよくわからなかった。数話前に恋愛の話終わりましたよね?

その他、人間観

作品全体に、生殖していくことへの全面肯定があり隔世の感がある。まあこの作品の設定の西暦2058年で、宇宙に出て行っても人間は相変わらず生殖している、という認識は別に間違っているとは思わないが、その状況を作中で繰り返すこと自体が保守的だと言われればそれはそうだ。

ネットワーク生物たるバジュラを模倣して人間存在を一つのネットワークに統合する、というアイデアは、所謂「人類補完計画」をきちんとSF的に理論化したもので、設定としてよく出来ていると思った。そして、主人公サイドが「異質な他人と衝突しながらやっていかなければならない、それが人間だ」という人間観を打ち出し、その計画を否定するところもエヴァンゲリオンと似ている。

この時代の作品には、アニメに限らずそのような人間観が主人公サイドの主張として顔を出すことがよくある。人間にはそれぞれ意識があり個性があり、言葉でコミュニケーションをしなければ理解し合えないということを、わざわざ言わなければならない時代の空気とはどんなものだったのだろう。それ以前は「人間に個性がなく話し合わなくても理解し合えた」という認識が普通だったとでもいうのだろうか。アニメで結論として打ち出される人間観(異質な他人とのコミュニケーション)と、そのネガである一体的な非-人間観(人類補完計画的な融合)は同時に現れたのではないかと思える。

生き残るため

印象に残った台詞が一つ。「宇宙は二つの種族が生きられるほど広くはない」というものだ。

これは、巨大な身体を持つ種族・ゼントラーディのある兵士が、種族独立のため人間に反旗を翻した時に発した言葉だ。ただ、作中でこの言葉はやがて人間とバジュラとの戦いについて当てはめられるようになる。

兵たちはバジュラを「害虫」や様々な比喩で悪魔化を試みるが、バジュラは目的もなく人間を殺しはしないことが後に明らかになるのだから、これは無知に基づいて相手を悪だと評価している態度である。むしろ、彼らの技術を研究対象にしたり住処を乗っ取ろうとしている人間のほうが完全に侵略者であって、そういう人たちがまるで被害者みたいに「生き残りたい」と口にしたり歌ったりするのは果たして倫理的にどうなのかという疑問が残る。

特に最終話、結局バジュラたちの元住処である星に、主人公サイドが我が物顔で降り立ってしまってよかったのだろうかとモヤモヤする。それしかフロンティアの人々が生きていく術がなかったとしても、その手段を肯定するなら、生き残るために人類を殺し、宇宙船内で繁殖したバジュラもまた仕方なかったのだと言うしかなくなるからだ。

今回は運よく椅子を譲ってもらえても、椅子取りゲーム自体は続いている。「宇宙は二つの種族が生きられるほど広くはない」ことは何も変わっていない。見た目より悲観的な作品なのではないかと私は思った。

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