『輪るピングドラム』(2011)について

2022/05/21

評判を聞いた限りでは非常に期待していた。むしろこの作品を腐している人を知らなかった。だから満を持して、という気持ちで臨んだ作品だったが、結果的にこの作品の何が面白いのかまったくわからず悲しかった。作品に強く惹き込まれる瞬間がほとんどなかった。まさか、まったく期待していなかった『マクロスF』よりつまらないとは思いもしなかった。

この作品が好きな方は以下を読むことを勧めない。


苹果の暴走について

物語前半では、荻野目苹果の軽犯罪的ストーカー行為をコメディタッチで描いていく比率がかなり多い。まあその部分は、ちょっと前の時代の少女漫画的描写として、生暖かい目で見守れなくもない部分もある。しかし弁当を作ったり願掛けをするくらいなら可愛いものだが、さすがに床下への侵入や睡眠薬を盛るのは一線を越えていると思ってドン引いてしまう。

しかしこの手の暴走は昔からあって、恋愛を動機とするコメディでは何らかのまじないや超自然的な力によって相手を悪く言えば洗脳したり、意識の無い状態でキスをしたりなんだり、結構めちゃくちゃなことが多かった。果たして、相手から好ましく思われたいという自分の気持ちによって、どの程度まで相手の意志への干渉が正当化しうるのか。相手から好ましく思われたいというのは、要するに相手の精神を都合よく操作したいという欲望だ。これはデートDVや恋愛工学といったものの根幹にある欲望でもある。

ただ恋愛を動機とするコメディの多くは、相手を洗脳して自分のことを好きだと言わせたり、相手の意識を無くした上で粘膜を接触させることが理想だなどとは考えていない。結局、それは自分が行動して自分の望みを叶えただけであって、自分が自分に対して好きだと言うことと区別し難くなるからだ。他者から、他者の意志で(これもよくわからない表現だが)「好きだ」と言われなければ意味がない。大抵の作品はそのような結論を持っていた。

この作品でもその結論は同じだ。苹果の努力はまっとうなものも軽犯罪的なものも失敗に終わるし、まじないが唯一成功して多蕗に好きだと言ってもらえても、彼女自身がその結果に納得せずに終わる(11話)。


いや、この作品に限っては、苹果が恋する乙女と見えるのは最初だけで、彼女の家族の事情が明かされると、彼女は死んだ姉の人生を代行する使命感で多蕗を追い回していることが明らかになる(第8話)。晶馬が指摘したように、そこには彼女自身の気持ちも、多蕗やゆり自身が望むことへの配慮もないのだから、彼女のそれは恋愛ですらなかったのかもしれない。

たぶん私は、苹果も冠葉も晶馬もそうだが、なぜ登場人物たちが「幸せな家庭像」に固執し、それを維持したり取り戻したりすることに使命感をもつのかよくわからなかったのだと思う。だから彼らがなにか極端な行動に走ると「そこまでするか?」と冷めた気持ちになってしまう。これは私が、幼い頃自らの家族について特に不満も抱かず崩壊の危機も見なかったからなのだろうか。その崩壊がどれほどの恐怖であるか身をもって知らないからなのだろうか。しかし、そういう人間すらも登場人物の心境に寄り添わせるのが、表現の為せる業なのではないか?


比喩の使い方

子どもの安全基地であるはずの家庭が崩壊してしまった恐怖を作中で象徴するのが、こどもブロイラーという心象風景だ。しかし私はこの比喩がうまくいっていたとは思えないし、むしろ子どもの苦境を矮小化する表現だったと思っている。

身体が引き裂かれそうな苦しみをイメージで把握すること、心境を表す言葉を手に入れること、それ自体は重要だ。こどもブロイラーに入って「透明な存在になる」ことが何を意味するのかは不明だが、これを神戸連続児童殺傷事件(1997年)を起こした少年の言葉と結びつける向きもある(wikiより)。象徴的な言葉を持つことで、現実で語られる誰かの言葉に結びつき、関心を広げるきっかけが生まれる。連帯の可能性が。

しかし、「愛されなかった子供たちが個性を持たない破片になる」というイメージもまた、それ自体が画一的である。作中でこどもブロイラーに入る幼い多蕗、陽毬は「親から愛されなかった」という大枠で見れば共通かもしれないが、それぞれの状況には当然違いがある。多蕗は精神的虐待に近い所謂「条件付きの愛」の下にあり、陽毬はネグレクト気味である。こどもブロイラーに入ったという一点だけを見てしまうと、従前の違いが無視される。本当に彼らの苦しみは同じ質のものなのだろうか。

そして「こどもブロイラー」描写の一番の問題点は、そこからの脱出法が一つしか描かれなかったことだ。その脱出法は同世代の人間が手を差し伸べて肯定の言葉を与えるということ、以上である。だが、置かれていた状況が異なれば解決法も全く異なるはずだ。誰かに偶然手を差し伸べられなければその人がその人として生き延びる可能性はないのだろうか? そうだとしたら、親を選べないという宿命に新たな宿命論を上塗りしているだけではないのか。最悪の状況でも簡単には放棄できない人間の主体性を考えてみようともしないのだろうか。

おとなしく体育座りして破砕されるのを待っている子どもたちも、ある者は回る刃を目前にしたら必死で逃げ出そうと逆走を始めるかもしれないし、従順に入っていったふりをして刃の隙間で身を躱すのもいるかもしれない。砕かれたと思ったらなぜか透明にならず生き延びていて、大人になって後々その体験をネタにする人もいるかもしれない。苦しみ方、生き延び方、死んでゆき方は多様だし、他人から手を伸ばされなかった人がみな同じ末路を辿るわけでは決してない。

どんな比喩も、使われ方次第で一つ以上の可能性を示すことができるはずだった。しかし「こどもブロイラー」は作中でそのような使われ方をせず、ある一つの解決法に誘導し閉じ込めるための舞台装置でしかなかった。私はそれが残念だったし、明確に良くないと思った。人を不自由にする比喩の使い方だ。


「誰かに一度でも愛されたなら幸せを見つけられる」

最終話では「この世のほとんどの子どもと同じ『あらかじめ失われた子ども』だったとしても、誰かに一度でも愛されたなら幸せを見つけられる」といった趣旨の、多蕗とゆりの言葉がある。何かいい言葉のように演出されているが、私はこの認識は単純に間違っていると思う。

私は知っている。親に見捨てられていたと語り、そしてその後誰かからすごく肯定的に接してもらったことがある人も、二十歳も迎えずに自殺したことを。この人は結局「愛された」わけではなかったのかもしれないが、そういう論理を認めるなら、愛された人が幸せになるのではなく、結果的に幸せになった人が愛されていたことになる、という生存者バイアスと何が違うのか。

そもそも、「あらかじめ失われた子どもたち」が、「誰かに一度でも愛された」という感覚を得ることができるのだろうか。愛されていると感じる素地ができていない人こそが「あらかじめ失われた子ども」なのではないか? だとしたら、この言葉は何を意味しているのか。ほとんどの子どもは幸せになる可能性がないということか? その子が主観的に「愛された」と感じる必要はないということか?

不毛な解釈は程々にする。しかし「愛された」かどうかを誰が、どうやって判断できるのかわからない点で、先の言葉は何も言っていないに等しい。「一度でも愛された」という感覚を得ることができない人を落ち込ませるくらいにしか役立たない言葉だ。


「救う」「助ける」とは何なのか

この作品は、救うとか助けるという言葉を「こどもブロイラー」から脱出させること以外にも当てはめているが、私はそのほとんどについて首を傾げざるを得ない。

例えば幼いゆりは父から虐待を受けていたが、桃果が彼女の父を文字通り消すことで、彼女は「救われる」ことになる(第15話「世界を救う者」)。しかし、嗜虐的な親の存在を現実と空想のいずれからも消去してやることで、その子どもを救ったことになるのだろうか? 親子間の虐待で一番の問題になるのは、子がどんなにひどい扱いを受けても親から離れるのを拒み、親に認められたいと望んでしまうことだ。そんなのは10年前でも20年前でも(新書レベルで)指摘されていたことだ。ゆりにとって、身体へのアクセスを許すほどに父は「親密な」相手であるが、その父の消滅を願い、実際に父が消えてしまうということが起こるならば、彼女は深刻な喪失感に囚われはしても、単純に救われたとは思えないだろう*1(だから親を止めてはいけないとか逃げ出してはいけないということではなく、現実では殺さずにいた上で、いずれは相手をただの不完全な人間として捉え直すことができるようにならなければならないのであり、それが「親殺し」の意味するところだ)。

やたら身体を張って陽毬を助けようとする冠葉も、助けるということを真面目に考えているとは思えなかった。少なくとも死にかけの人を助けるとは、犯罪組織の金で怪しい薬を買ったり、鉄のケーブルを素手でつかむことではない。そうやって助けられて嬉しくなる人は相当のお人よしか人でなしだろう。自分のために自分に近い人が苦しんだとき、申し訳ないと思ってしまう「他人への苦しみへの苦しみ」をこの作品はあまりに都合よく無視する。もちろんそうした冠葉のエゴイズムへの批判者として真砂子がいたが、結局彼女は彼を止めることができなかった。

救うとか助けるとかいう言葉がこの作品で空虚に響くのは、その辻褄合わせとして、人間があっさりと消えるように描かれることが度々あるからだ。終盤につれそういった描写の割合が増えていく。人間はなんだかんだ全てが終わったと思った後も続いてしまうし、綺麗な顔で眠るように死んだりできない。ガラスの破片のように美しくこぼれていくことは無いし、「蠍の炎」に焼かれておしまいということもない。その認識は物語の中にもあったはずだ。だから祖父の亡霊に憑かれている真砂子や、死人に囚われている多蕗とゆり、苹果が描かれてきたはずだった。人間にとって人間の存在は差し引きできないので、彼らはすべてが終わった後も、消えた(消した)はずの人々を背負ってダラダラと生きなくてはならなかった。最終話で彼らの生き様をすべて否定して、陽毬と苹果の代わりに兄弟があっけなく消え、最初から居なかったことになるという展開は、何がしたかったのかよくわからない。「運命の乗り換え」とは、人間にとって人間の存在が差し引き可能になるということか? だらだらと生き汚く日々を過ごすことはもうやめて、さくっと誰かを「助け」たら、この世から消える権利を獲得するということか? 「運命の乗り換え」への憧憬が、この作品の結論でいいのだろうか?


最後に。この映像作品を作った人たち、特に最終話を作った人たちが宮沢賢治を好きなことはわかった。しかしだから何だというのか。私は制作者たちの宮沢賢治への敬意を感じたいんじゃなくて面白く夢中になれるアニメを見たいんだよ。

以上です。



*1 探してみると、同じ箇所に違和感を持っていた人もいるらしい。
「ゆりや多蕗が、虐待されていたとはいえ、その親が消えた世界に改変してもらったことを感謝していたり、大量殺人を犯した冠葉がなんら悔悟や贖罪の情を見せないまま運命の乗り換えに進んだりという描写は、なんとなく良さそうに見える物語を、掘り下げないまま良さそうというイメージだけで配置したもので、そこには愛を標榜している筈のこの作品が無自覚のまま有している、異常なエゴイズムが顔を出していると感じるものがありました。」(E・カリング

QooQ