『すずめの戸締まり』について

2022/11/19

私は新海誠が作る物語の熱心なファンではないと思う。私が新海誠の名を覚えたのは、「ゲームのOPでやたら綺麗な空を描く人」としてであり、efとかイースⅠ&Ⅱとかに関連してのことである。

成人後、『秒速5センチメートル』を見たことがある。労働が人を壊していく話だと小耳に挟んだからである。しかし、どちらかというと私は「高校生が栃木に向かううちに異常な世界に入ってしまう話」として鑑賞したので、後半の印象がほとんどない。

『君の名は』は、地上波で放送されたのを見た。人物の言動がエロゲみたいだなと思い、あまりストーリーを憶えていない。

まあそんなことはよい。今回は『すずめの戸締まり』の話だ。私はこの作品について微妙だったと言わざるを得ない。少なくとも、もう一度満額を払って映画館で観ようとは思わなかった。

もちろんネタバレがあるので、未視聴の方は以下気を付けてほしい。べつにそれほど衝撃の事実ってものは無いから、読んでも影響ないのではと思いますが。




この映画、キャラクターがまったく魅力的ではなかった。

草太が「無」すぎる

まず草太とかいう男が無理でした。この人、何なんですかね。終始キャラ薄すぎてもはや無じゃないですか? 悪い意味でエロゲの主人公みたいだなと思ったよ。設定の説明とか、「ファンタジー現象に関係ないヤツは帰れ」(←こう言われた奴は絶対帰らない)みたいな紋切り型しか言わないし、この人自身の考えとか価値観がまったく見えなくて不気味でした。

例えば彼はなんで教師になりたいんですか? 雇い止めに遭わないから? 大多数の非正規教員なら普通に任期あると思いますけど? というか教師やりながら閉じ師するとか教職なめとんか。片手間に教職ができるわけないだろ*1。教育実習行ってないんですか? そういう人が教員試験バックれて将来が消えても、可哀そうどころか妥当としか思えない。「とりあえずライスワークとして教職か~」みたいなテキトーさが彼なんだとしても、お前テキトーだなみたいにツッコむ人誰もいなくて、一応ちゃんとした大学生ということになってるし……大学生なんて皆そんなもんだということですか? だとしたら真面目にやってる現役大学生はキレていいんじゃないですか?

閉じ師をやっているという点でも、この人なんでそんな必死なん? という事情が全く描かれないので、今まで頑張ってきたらしくても、その頑張りがすずめに認められても大してよかったねと思えないし、終始遠かったです。中盤、別に決意をもって要石になった感じもしないし、封印されてもふーんそれで? って感じだった。草太のじいさんが「決意をもって要石になったんだから」みたいなこと言ってたけど、えっそんな描写一つも無かったですよね? っていう……

もしマジでやってんなら、建前でもいいからマジでやってる事情や決意を描いてくださいよ。家業だから受け入れて粛々とやってるのか、閉じ師の仕事自体に楽しさが無いわけでもないと感じているのか、閉じ師の仕事の社会的な意義をどう考えているのか、そこを何かしらの形で描いてくださいよ。廃墟巡りめっちゃ好きだからとか、じいさんの医療費のためとかでもいいよ。誰に褒められもしない仕事なのに、金持ちでもないただの大学生が自費で遠征してなんとなく命がけになるわけないだろが。

ダイジンとサダイジン、何でもありか?

ダイジンとサダイジンとかいう猫2匹。こいつらもなんなんですか? 日本の神話とか勉強しないとわかんない感じですか?

敵か味方かわからない、キュウべえ的なことやろうとしているのかなと思いもしたが、「助けてくれていた」というのはすずめのした解釈に過ぎないし、何度も無理って言ってたのに最後は結局要石に戻るし、もう真面目に考えるのも馬鹿らしい気がしてくる。「神は気まぐれだから」って言っとけば破綻した言動も許してくれると思われてます? どう割り引いて見てもミミズじゃなくてあんたらが震災じゃねーかよ。

あとすでに言われてることですが、環さんがかなりアウトなことを言ってしまったときにサダイジンが現れて有耶無耶になる、という展開にはズコーってなりました。本当にアレは何? サダイジンとかその辺にいる神様は何か超常的な力をもっていて、つい人が酷いことを言ったりやったりするのもそういう魔力に充てられてのことなんだよ、っていうことですか? なんすかそれ。仮にそうだったとして、酷いことを言ったりやったりしたことの後始末は結局その人がやるんでしょうが。そこで「妖怪のせいなのね」って言って「じゃー仕方ねえな」てなったら近代社会は全部おしまいでしょうが。

さすがに環さんの言う内容が酷いから炎上しないように逃げ道を作っとこう、「や、あれは妖怪のせいですから」と解釈できるようにしとこう、そういう作り手の保身が見えた気がして不快でした。酷いこと言わせんならその人自身の力で言わせてくださいよ。もし環さんが魔力に操られて酷いことを言ったのだとしたら、そういう酷いことを言ってしまう自分も自分なのだと彼女自身が認めることはできなくなりますよね? あんなの自分じゃない、と言える理由ができるわけですから。そういう言い訳があったら、すずめのほうも「あんなのおばさんじゃない」と思って、環という人間の多重性からかけ離れた、ただ黙って受け入れるだけの人間をイメージし続けることができてしまいますよね? そういう都合のいいイメージを破壊するときに手加減するなよ。どうせフィクションなんだからきっちり腰入れて破壊してくださいよ。今の観客はそういう心理的な負荷に耐えられないだろうとか舐めたこと考えてるんですか? フィクション世界の人間に本来醜いところはないと観客が純に信じているとでも?

まあその後で環さんが「ああいう酷いことを考えたこともある」と、超常現象ではなく自分の思いとして引き受け直していたので結果的にはいいです。ただ、それを「言ってしまったこと」の責任ちゃんと取ってんのかよという気はした。謝罪の言葉ありましたか? 一生懸命自転車漕いでやるからそれで誠意は見せたってことなんでしょうか?

場違いな乾いた笑い

あとこれは他のアニメとか日本製の実写ドラマにも言えることなんですが、そこで笑うか? みたいな場面で「ハ ハ ハ ハ……」と俳優の方が演技されているのを視聴すると寒気がするんです。いやそこ笑うところなの? という気分になる。こういう笑いは、感情移入できていない観客をおもっきし萎えさせるだけなので無いほうがマシなのでは? キャラが笑うからってこっちも自動的に楽しくなるわけないだろ(バラエティー番組の笑い音声じゃあるまいし)。多分、もうすこしキャラクターの心の動きについていけたなら気にならなかったんだろうけど。

すずめは良かった

主人公格の中でちゃんと筋が通って描かれていると思えたのはすずめだけだった。自分が発端を作ってしまったという後ろめたさがあるから、事の始末がつくまで草太に同行して猫を追うというのは納得できることだし、冒険的なことに心躍る年代なんだなくらいの気持ちになれた。

しかも、命かけてまでなんで戸締まりやるのかということにも、すずめの場合はちゃんと脈絡がある。彼女は草太に「死ぬのが怖くないのか?」と聞かれて、「怖くない!」と断言するような、ある意味異常な人間だったからだ。そういう異常な人間だからこそ、途中で「自分こそが要石になる」とか言い出しても違和感がないわけだ*2。

こういう異常さに私は見覚えがあった。Fate/stay night の主人公、衛宮士郎だ。序盤の彼は、絶対敵わない化け物を止めるため素手で向かっていって、バラバラになるまでブチ殴られたりする。彼はまさに「死ぬのが怖くないのか?」と問いたくなるような、異常に捨て身な人間だった。すずめにも、衛宮士郎と似た種類の異常さを感じた。

実はこの二人には共通点がある。どちらも大規模な被災の中で家族を亡くして自分だけ生き残ったということだ。私はこうした生き残りの体験と異常な捨て身の関係について考えてしまう。大勢死んだ中で生き残った人は、自分の命がなにか絶対的に大事なものだと思うのが難しい、生きるも死ぬも偶然だったとしか思えなくなってしまうことがあるのだろうか。すずめは実際「生きるか死ぬかなんて偶然でしかないんだ」という趣旨のことを言っていた気がする。しかし私は被災して故郷や家族を失った経験がないから、こういうサバイバーたちの描写がどのくらい妥当なものなのか本当にはわからない。彼らの言動から想像することしかできない。

今回の「常世」の炎上する大地の風景も、Fateの冒頭で描かれる、焼け野原となった冬木の町を連想した*3。何でもかんでも関連付けるのもどうかと思うが、もともとノベルゲーム業界と関わっていた新海誠がFateを知らないはずがないし、この関連をあえて引き受けようという人が出てきたらいいと思う。

逃れられない原風景

すずめの時折顔を出していた異常さは、彼女の被災経験の痕跡として描かれていた。そして後半では、彼女は自分が被災した土地へ戻り、おぼろげだった当時の記憶を思い返していくことになる。「常世への扉は生涯で一つしかくぐれない」という設定は、何年経とうとも、どこで何をして暮らすことになろうとも、人は自分が物心ついたころの原風景から逃れることはできない、そこを避けて通ることはできないという強い宣言に思えた。この既決定性は、『秒速5センチメートル』の頃から新海誠が描き続けてきたことの一端ではなかっただろうか。

常世で、すずめがひとり彷徨っていた幼い自分と向き合う場面には他人がいない。いなくていいんだと思った。他人やモノの存在は自分の原風景と向き合うためのきっかけにはなっても、その風景のむごさを変えてくれる魔法ではない。自分の原風景は自分自身でしか向き合えない。向き合ったとして何かが変わるとも限らない。ただ救われなかった自分がそこにいたことがわかるだけだ。それでも時計の時間は勝手に進んでいくという主旨の、高校生になったすずめの言葉はもっともなことだ。それを喪失が喪失とも分かっていない最中の人に直接言うのは暴力的だろと思うけれど、自分自身に向けた祈りであるかぎりで、肯定できなくもない内容だ。凍り付いた瞬間だけでなく時間の経過もありうるということは。

すべての時間が一挙にある場所、という常世の形而上学的な設定の使い方は非常に良かったと思う。その場所だからこそすずめの自己対話は成立した。私は常世の場面を描くことができたなら、前半のロードムービーの内容だとか、ミミズが出てきてドンパチやるとかはどうでもよかったのではないかと思うし、すずめが出生地に向かう理由が草太周辺の茶番でなくともよかっただろうと思った。というか前半マジでどうでもいいです。そもそも私はアニメ映画に列島各地の寂れ具合のディテールとか懐メロとか求めてないし、そういうことが知りたいなら直接現地に行ったり、NHKの特番とか図書館の本とかを参照するからだ。


また震災という点でも、色々ツッコミが入っているのを目にする。例えば3.11については人間には何もできなかった自然災害というだけではなくて、人災の側面もあっただろうと。原子力発電所という要素にほとんど触れずに、3.11とその後の宮城・福島を扱ったと言っていいのか。しかし限られた時間で全部描くのは無理だし、震災を描き切れてないとか、なぜ震災を特権化するのかという点でこの作品を非難するつもりは特にない。たとえ3.11の描写が不十分でも、私はすずめが自分の原風景と向き合った過程を確認できたから個人的にはそれでいい。3.11を描く作品はこれだけではないし。


無理やりまとめると、ほとんどのキャラクター造形が致命的に雑で作品を楽しむ気になれなかったが、すずめ関連のエピソードと常世の設定の絡み方はよかった、ということになる。私は視聴後「もう自分はアニメとか見ないほうがいいのかもしれない」とまで思ったが、その後視聴した『天気の子』はうまく人物たちの心情に近づくことができたので、単にこの作品(の特に前半)が自分向きに作られていなかったということなのだろう。そういう不幸な出会いがあったことをここに記しておく。


*1 私は教員ではないので厳密な実態は知らない。でも知人から、平日の長時間残業、土日のどちらか返上が日常茶飯事であるらしいことは耳にしている。

*2 要石になるってことは死ぬことと同じじゃないのでは(可逆的だから)、というツッコミはありますが、まあそれはいいとして。

*3 冬木の町の風景は一部神戸市周辺をモデルに描かれたと言われており、そこから阪神淡路大震災とFateの過去エピソードを関連付ける人もいるらしい。ただし公式作品の多くの設定では大分あたりに位置することになっているらしい。https://note.com/note_s/n/n771d750ec8b1

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