『天気の子』について

2022/11/27

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すでにこの記事で軽く述べたのだけど、概ね登場人物の気持ちについていけたし良かったと思う。

しかしAmazonのレビューなど見ているとかなり反感を買ってもいるようなので、それに関連して2、3述べて終わりにしたい。私はアニメ評論家でも何でもないのでプロの意見は知らないし読んでいない。おいおい追っていくこともあるかもしれないが。


帆高はなぜ帰らないのか? そもそもなんで家出したのか?

たしかに、この点はほとんど語られない。ただ、私は具体的にされなくともあまり問題は感じなかった。自分が高校生だったころの、なんとなく逃げ出したい気分を帆高のうちに見ることによって納得できたからだ。高校生の頃の自分は結局家出はしなかったけれど、想像の中では家からも学校からも逃げ出して毎夜学園物ノベルゲームの舞台である架空都市に通っていた。そういう想像すら促進されなかったら本当に失踪していたかもしれない。

物語の最後、帆高は警察に捕まったらあっさり家に戻って学校に復帰し日々を過ごしているので、地元にいたころ家庭や学校でなにか本当に過酷な仕打ちを受けていたわけではないことがわかる(虐待とかいじめとか)*1。しかし、大人からすると明らかな加害行為を受けていないように見えるときであっても、つらいときにはつらいのだし、人が「尊重されていない」と感じる状況は殴られたり蹴られたり罵倒されたりしているときだけではない。外形的には加害者が居なくとも、自家中毒のように塞ぎこんでしまう人だっている。良くも悪くもおなじみの他人がいる今の環境がすべて興醒めだと感じてしまうことがある。だから帆高は家に帰るわけにはいかなかった。というより積極的に帰りたいと思える場所が無かった。どこも自分のいるべき場所だと思えなかった。こういう実存的な故郷の無さは、私には覚えがあるものだった。

超デフォルメされた警察官たちと銃

レビューを見ていると、「日々頑張っている警察の皆様をただの悪者にしやがって」という記述が多くて驚いた。みんな警察好きなんですね。私はこれまで警察に対して何らか具体的に感謝を述べる必要を感じなかったお気楽な人間なので、別にフィクション作品の中で警察が悪者にされようがされまいがどうでもいい。警察内部がテーマでもない限り、この作品ではそういう扱いかと納得する。話は逸れるが、警察(というか都道府県公安委員会)はどうして引っ越した時に免許証の住所を住民票に自動で合わせることすらしてくれないのだろうか。そんなことのために警察署まで出頭させられるとか本当に馬鹿馬鹿しくて腹が立つ。私の警察に対する思いはそんなところです。

銃の扱いが雑過ぎないか、という意見もあった。普通警察に届けるだろうとか、安全装置とか撃ち方とか知らない子どもがなぜ使えるんだとか、たしかにそうだなと思えるツッコミどころは満載だ。実際、銃を登場させなくても、食べるもの無くて万引きしちゃって追われるとか、何日も寝泊まりしてたネカフェに通報されるとかで、警察に追われる理由はできると思う。しかしこの作品では、丸腰の子どもがまともな大人たちに対して何かしら抵抗できる力を用意する必要があったんだろうなと思う。そういう象徴となるアイテムが銃でいいのかはよくわからないが。

まあこの国で暮らす大半の人は(私も含めて)銃についてあまりよく知らず、なんとなく危険みたいなイメージしか持っていないだろうから、そのふわっとしたイメージがお話作りに都合よかったのだろうと思うことはできる。銃にこだわりがあるのは一部のオタクだけなのでは。


会うと自他ともにまずいことになるのが確定でも会いたい

そういうことってあるのだろうな、と思えたらこのアニメに何かしら感じ入るところはあるだろうし、そう思えなかったらただの駄作として見たり映像の凝り具合に感心したりするほかないんだろう。視聴者に特定の経験が用意されてないと楽しめないのはエンタメ作品として問題だろとか、そういう排除的な読み方はどうなのとかも思うが、自分が視聴した限りではそうだったのだからひとまずは仕方がない。素直なところを書いておきたい。

私が学生の頃も、帆高くらいに無計画で馬鹿だったし、今もその名残があるので、勢いに任せてとりあえず一緒にいれば他のことは後で考える、なんとかなるだろ、みたいな気持ちは少しわかる。当時は、自分が早めに職について働けばなんとかなんだろ、くらいに考えていた(バイトすらロクにしていなかったのに)。実際のところは相手との関係にも相手自体が抱える問題にもまったく出口が見えなかったし、結婚など考えようものなら重圧がヤバすぎて吐きそうになっていたが、それでも行けるとこまで行く、もう引き返せない、という悲壮な視野狭窄になっていた。いくら小賢しく将来の計画を立てるような素振りをしていても、そもそも相手に関わらなければ不確定要素は一番少ないのだから、どうすれば関係を続けられるかと頭を悩ませている時点でまともじゃないのである。

だから帆高が「彼岸に行くんだ!」と喚き出したときは、こいつは本当にイカれてしまったなと(警察の皆さんに同調して)思いつつ、他人事として笑っている場合ではない気がしていた。さすがにおかしい、やめとけと思いながら、そうだよ、行っちまえとも思っていたので、登場人物の誰の態度にも近づきうると思ったし、状況自体をメタに見て文句を言うみたいな気分は起こらなかった。つまり作品に没入できていたということだ。


死別を経験した人の「また会いたい」をとがめられるか?

空の上(彼岸)に行っちゃってるらしい陽菜に会いたいというのは、相手が死んだから自分も後を追って死ぬみたいな向こう見ずな衝動だ。だいたい本当に彼岸に行けたところで、陽菜を見つけられる保証も五体満足で暮らせるようになる保証もないのだから。無駄死にに終わるかもしれない。

須賀はどうだろう。妻と死別したあと、彼は「自分が死んだら相手にまた会える」と考えたことが一度もなかっただろうか? そんなことをしたところで会えることはないのは、死後の世界を特に信じないかぎり明白だ。また本当に後を追ったら、残された家族だの親戚だの仕事関係の人間だのが面倒くさい後始末に追われるだけであることは容易に想像がつく。しかし健全にそういう想像ができたなら、彼は「また会いたい」などと思わなくなるのだろうか?


視点を変えると、あなたは誰かと死別した人に「死ねばまた会えるとか考えないでね、そして後を追って死んだりしないでね」と言うことができますか、という話だ。私はたとえ強いられても言いたくないし、言われたくもない。100%まともな意見だと思うけど、うっせえわと言いたくなる。死別経験者すべてにスピリチュアルな素地があるわけでもないし、当人だってそんなことは考えたくないだろうが、考えてしまうものは仕方がないだろうと思う。

帆高みたいな衝動が本当に非現実的なものであるなら、須賀も、死別を経験した全ての人も、もっと安楽でいられたはずだった。でも実際はそうではない。多くの人が「また会いたい」「死ねば会えるか」などという衝動を宥めすかして、死んでもまあ無駄なだけだわ、まずいことになるから会いたいと思わないほうがいいわ、と言い聞かせて、命をだいじに生活している。

この映画、正確にはこの映画の帆高周りの演出は、そういう人たちの普段の誤魔化しを全力で剥がしにかかる。捨て鉢で向こう見ずで何も正しくない会いたさというのも確かにあると、スクリーン上で力強く肯定する。そうであれば結果的には良かっただろうと私は思う。そうなれば、彼らは押し殺していた衝動を帆高に代行してもらい、また明日から命をだいじに、まともな顔をして淡々と生活できるだろうからだ。


東京臨海部水没について

私は、帆高の「天気なんて狂ったままでいい」という台詞は「そのくらいの感情の強度です」ということの表現だと思っていて、結末としても実際に狂ってしまって水没するのかよと思ったりした。もちろん東京臨海部にもそれぞれの人の生活や思い出があって、……しかし、こんな話を始めると犠牲になっていい土地などほとんどないのだから、現代社会を舞台にデカい話をやること自体ができなくなるだろう。この方向で話をするのはやめておきたい*2。

ただ環境問題でいうと、高度経済成長期には黙っておいて、生まれたときになったら急に「我々のせいで異常気象」云々と言われても、Z世代以下の人にとったら「知るかそんなの」って話ではないのかと。自分が生まれる前の負債を引き取って我慢する必要が本当にあるのか私にはわからない*3。「もういいよ!」というのは、異常気象ということでとりあえず生まれたときから我慢させられている世代の人々の叫びにも聞こえる。まあだからといって環境問題なんてくだらねえと私が言うつもりはなく、多数派である大人はちゃんと考えるべきだと思う。

あとこの水没か陽菜かみたいなのでトロッコ問題みたいな話始めるのは本当につまらないなと思う。そもそも帆高も陽菜を地上に下ろせるか確証はなかったのだし、天気が狂ったら3年後どうなるとか予想なんてもちろんしてないだろうし、水没か陽菜かみたいな思考実験なんて誰もやっていない。そういうの好きな人はおとなしくサンデルの講義でも読んでてほしい。


帆高は陽菜の意志を尊重していない? +その他

陽菜自身はどういうことを望んで別れを選んだのかを帆高はまったく考えてない、だから彼女の意志を無視して会いに行った彼は本当の思いやりとやらを知らない、などと宣う人もいますが、そういうおっさんおばさんたちはさぞご立派な高校生だったのだろうなと思います。相手の気持ちを考えることがみんな自然にできていたら、世の中でここまで人権侵害が起こったりしない(ストーキングも発生しない)。そもそも陽菜がどうしたいのかなんて一つではなくて、ものすごく単純化してみても、天気をまともな状態に戻したい、かつ、地上で望む奴らと暮らしていきたいという板挟みの状態というのが本当では? そこでどうするかを彼女自身が決めないといけないのか。私がその立場だとしてもそんなの決められない。誰かが決めてくれればそれに乗っかりたいよ。お互いがお互いの気持ちを考えていてお見合い状態では結局何も決まらない(あるいはなりゆき任せという選択になる)のだから、帆高が先に自分の意志を通してはいけない理由は別にないはずだ。……というのはさすがに苦しいか。まあ気軽に助言を求められる状態で当事者が決められるのが基本は良いと思うし、それに周りが従うべきだと思います。


正直そうやって主導権を取るのが男であることも含めて、ジェンダー的にはかなり問題ありな部分が多いとも感じている。例えば「どこ見てんのよ」って昭和のセクハラが普通だったころの特殊な符牒ではないのか。おっさん受けを狙うのではないかぎり今どき使う理由もない言葉ではないか。正直ちょっと滑っている。

全体のモノローグを取るのが帆高少年だから仕方が無いのかもしれないが、胸がどうとか、始めて女の子の部屋に入るときの緊張とかは、当の女性たちからの捉え返しがあっても良かったような気がする。というか女性キャラクターの造形がなんとなく古臭い感じするんだよな、気のせいでしょうか。

これは意図して趣味悪くしているんだろうな、と思うところもある。ラブホとかなんか時代的に違和感がある服装とか。あえて街のいかがわしいところを出してやろうみたいな雰囲気があるので、女性キャラクターもそれに合わせてチューニングされている感じがある。だから気持ち悪いと言われるのもなんとなく理解できる。陽菜のキャラクターって、個人的には帆高よりもよほど現実味がない気がした。帆高のことをとがめるシーンなくはないけど、批判っぽいだけで彼には批判として受け取られておらず、結局彼に付き従うだけな気が。美少女ゲームにはそういう感じのキャラクターよくいますが……


まとまりがないが、終わりにする。総合的には良かった。こういう、暴走する人が気のすむまで暴走するアニメがもっと増えたらいいなと思う。ただしシスヘテロ男以外の描写もちゃんとしてください。


*1 ただし物語冒頭ではなぜか彼は顔に怪我をしていて、何かきっかけがあったのかと想像を巡らすことはできる。

*2 正直なところを言うと、私は23区の8割くらいの場所は人間が多すぎて嫌いなので、もう少し人が寄り付かなくなってくれたら個人的には嬉しい。そんなことは起こらないと思いますが。

*3 この国で言うと環境問題だけではなく戦争責任という昔からの重荷もあって、これはある意味もっとどうしようもないのだがさすがに話題逸れすぎるのでやめておく。

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