欲望年表(1) 魔法に憧れたころ

2022/12/17

最近「ハリーポッター」シリーズに興味を持ち、自分が小学生だったころを思い返したので、幼少期の私が興味を持っていた事柄について書き留める。今回は物心ついてから小学校までである。

かなり歳がバレてしまう内容を含むが、最近の個人誌には生年も書いていることだし、どうでもよくなってきている。


生誕

私は関東には一応含まれている片田舎に生まれた。ひたすらに広がっている田畑、田畑にすらなっていない原野が広がる中に民家がぽつりぽつりとある、そんな町だ。

小学生以前に何を好んでいたのか記憶はないが、蒸気機関車が好きだった覚えがある。しかし実物の蒸気機関車の汽笛を聞いた幼少期の私は驚いて大泣きしたという。私は実際に見たことも聞いたこともないものを空想することには一生懸命だが、現実的な刺激には非常に脆弱だったようだ。

事実、私はいろんなものを恐れていた覚えがある。例えば「きかんしゃトーマス」という作品があり、私は本編をよく見ていたのだが、オープニングの曲と映像が非常に恐ろしく感じられた。だからオープニングが過ぎ去るまではトイレに隠れていた。

小学校(00年代中頃まで)

携帯ゲーム機

兄がゲームボーイを買ってもらい、初代ポケモンをやっていたのを一部やらせてもらった。ジムリーダーを倒すまで次の町に行けないのを理解できず何度もジム前に連れ戻されたり、最初のイワヤマトンネルでフラッシュを使うという攻略法が理解できず、野生のズバットに何度も瀕死にさせられ本気で泣いたりしていた。ちなみに当時は攻略本を買うことも、インターネットで攻略法を調べるということも一般的ではなかった。

GBA(ゲームボーイアドバンス)が登場した頃からは攻略本も普及し、分からないときには参照しつつ進めるということが可能になった。

主に自分が選んだ作品は「ポケモン」(GSC, RSE, DP)、「ロックマンエグゼ」(3-6)、「カービィ」「カスタムロボ」など。後に関わってくるのは、ロックマンエグゼとカスタムロボの表面的な雰囲気だろうか。当時の私は、GBAのゲームにストーリーの面白さをあまり求めていなかったと感じる。

家には据え置き型ゲーム機が無かったので、それは専ら友人の家に行ってプレイしていた。「大乱闘スマッシュブラザーズ」や「マリオカート」などをやることが多かった。

学校図書室と図書館の本

学校の図書室には面白いと思える本があまり無かった。「かいけつゾロリ」シリーズが人気を博していたが、私はなぜか読もうとしなかった。赤川次郎の本もやたらあったが、まったく手を付けなかった。

その図書室には「牧野富太郎植物記」というボロボロの本があった。これは植物学者の牧野富太郎が植物に関する知識を披瀝していくエッセイだった。私は生意気にもそれらを読んで、植物に興味を持つことになった。

ジャンルとしての興味は主にSFとファンタジーにあった。岩崎書店から出ていた児童向け縮小版の名作SFを、図書室にある分だけ読んだ。H. G. ウェルズの「タイムマシン」(これは縮小版ではなく完全なもの)もあったので読んだが、時を遡る技術と描写について鮮烈な印象を受けた。しかしその作品に描かれる未来世界は小学生の私には理解できず困惑した(それはそうだ)。

図書室には児童向けファンタジー小説がほとんどなかったので、週末には親に地元の図書館に連れて行ってもらい、児童書コーナーにあるファンタジー小説をよく読んでいた。おそらく最初期は「デルトラ・クエスト」シリーズなど、話と語り口が優しいものから入っていった。「リンの谷のローワン」も、割と読みやすい部類ではあった。

ファンタジー小説の読書で一つの転換点となったのは、エリザベス・ケイ「フェリックスと異界の伝説」シリーズだった。このシリーズでは、ファンタジー小説の定番ギミックである「魔法」の原理について独自の考察が為されていた。魔法をただ不思議な現象で終わらせず、理論的に説明する姿勢に私は知的な好奇心をそそられたのだと思う。 

児童書コーナーには「まんが アトム博士の電磁気学入門」などの本もあり、私はここから電磁気学や核物理学の概要を理解できないまでも単語レベルで触れていった。自然界には重力、電磁気力、弱い力、強い力という「4つの力」があり、現代の科学理論はこれらすべてを統一的に説明できる理論を探求している、程度のイメージを持った。

「フェリックス」と同時期に読んでいたものを憶えているかぎりで挙げると、ガース・ニクス「セブンスタワー」、T・A・バロン「マーリン・シリーズ」、デブラ・ドイル/ジェームズ・D・マクドナルド「サークル・オブ・マジック」、カイ・マイヤー「鏡のなかの迷宮」シリーズ、同「海賊ジョリーの冒険」、ジョナサン・ストラウド「バーティミアス」(途中で挫折)等だ。

「鏡のなかの迷宮」などは少しロマンス要素もあった記憶があり、最初期に触れた恋愛物語と言ってもいいかもしれない。前にも言ったことがあるが「ハリー・ポッター」シリーズは最初の一巻を読んでやめてしまった。

こうした主に英語圏の作品と並行して、日本人作家のファンタジーも読んでいた。例えば、たつみや章の古代日本を舞台にしたもの、荻原規子の勾玉三部作など。後者は特にキャラクター同士の強く執着し合う関係が印象に残っていた。上橋菜穂子の「精霊の守り人」シリーズも読んでいたが、途中で気持ちが醒めてしまった。どうしてかはよくわからない。

そして小学校の高学年頃だったと思うが、衝撃的な作品に私は出会った。イ・ヨンド「ドラゴンラージャ」シリーズ全12巻である。淡々とした俯瞰視点で書かれることの多かった他作品と違って、この作品は主人公の少年・フチの生理がべったりと張り付いた独自の視点で物事が語られていく。1巻はそのシニカルな文体のくどさ、物語の方向性の見えなさに困惑したが、2巻からの目くるめくようなエンターテインメント性に小学生の私は夢中になった。3巻くらいずつ借りて2、3週間で読み切ることを繰り返し、都合半年もかからずにシリーズ全巻を読み終えたが、正直言って最後の2巻ほどは小学生の自分には難解すぎた。どうしてそのような結末になったのか納得できず、もっと違う終わりが書かれるべきじゃないかと苛立った記憶がある。ともあれ、当の作品が自分の中で唯一無二の作品として認定されたことには変わりなかった。この物語は、私が読んだファンタジー小説の中でも唯一、中学時代にも読み返すことになる。

漫画

小学生の頃に買っていたのは主に雑誌『コロコロコミック』だったと思う。単行本は買わなかった。ただ例外的に、兄が読んでいた「金色のガッシュ」は追っていた。他は、家族がどこからか借りてきた「テニスの王子様」1~30巻くらいだった。

これらの作品は先述したファンタジー小説群と同時期に受容されたはずだが、その後の私に爪痕を残したものは少なかった。ただ、漫画版も含む「ロックマンエグゼ」の準SF的な世界観と「金色のガッシュ」の呪文周りのディテールは、ファンタジー小説の魔法への着目とも相まって、その後の私の精神世界に影響を及ぼしたと言えるかもしれない。

(追記)当時私が面白く読んでいたマンガがある。ベネッセの「進研ゼミ」のダイレクトメールに封入されていた、子どもを勧誘するためのマンガである。年に3~4回ほど送られてきて、ご丁寧なことに、ターゲットの学年ごとにそれぞれ違った作家が違った筋書きでマンガを描いていた。私にはきょうだいもいたので、年に10パターンほどの勧誘マンガを目にしていたと思う。

話の筋はほとんど固定されていて、すでに進研ゼミを取っている人物が、取っていない主人公にその美点をプレゼンし、進研ゼミを始めた主人公は勉強でも他の分野でも目覚ましく成功するというものだ。勧誘マンガなんだから当たり前だが、定型に沿っているからといってその多様さはなかなか馬鹿にできないものがあった。

勧誘対象の子どもの年齢や性別によって絵柄や話のトーンも変わるし、「すでに進研ゼミを取っている人物」は、兄や姉のこともあれば、妹・弟のこともあり、友人や部活のライバル、恋敵であったりする。血のつながりはない先輩ポジションの人物であることも多い。また通信教育の宣材だからといってべつに勉強の話ばかりしているわけではなく、中学・高校生向けになると部活や恋愛の描写にもかなりのページ数が割かれていた。部活の大会の場面とか、夏に蛍を見に行くエピソードなんかもある。三角関係や「一度地元を離れ帰ってきた幼馴染」など、私が後に出会うことになる美少女ゲームの定番と共鳴していた回もあった。逆に恋愛要素を全く排除しながら、印象的なストーリーを作っている回もあったはずだ。手元に残っている資料が何もないのが悔やまれる。参考1 参考2

進研ゼミの勧誘マンガは高校卒業まで届き続けたが、私の記憶では、私が小学校高学年から中学生の終わりまで、つまりゼロ年代の後半にかけての作品が一番ストーリーテリングが凝っていた記憶がある(私は兄がいたので自分より上の学年対象のマンガも読めた)。しかし自分が高校生になる頃(10年代以降)には、以前ほど凝ったものは作られなくなっていた。あるいは私の感受性が変化したのかもしれなかった。(追記終)

その他の本

私の通っていた小学校では、特定の日の朝に10分程度の読書時間が決まっていた。私はそのために、重量が軽くほどほどの熱中具合を保てる本を見繕わなければならなかった。その読書時間では、私は本当に好きなファンタジー小説は決して読まなかった。なぜなら学校で異世界には没入できないと思っていたからだ。私は読みたいところまで一気に読みたいのに、せいぜい10分で切られてはたまらない。私はファンタジー小説だけは家の自室や寝床で読むと決めていた。布団から出たくない冬の日は、カーテンの下に頭を潜り込ませて朝陽の光でそれらを読んでいた。

持ち運びが楽で特に思い入れの無い本として、私は家にあった小松左京の文庫本を選んでいた。まあSFも嫌いではなかったし、短編が多いので読むには丁度良かった。小学生にはキツい下ネタなどもあった気がするが、なんとなく気まずくなりながら淡々と読んでいた。また、シャーロックホームズの児童版を選ぶこともあった(ただし憶えているのはタイトルくらいで、内容は一つも記憶に残らない)。小松左京の本が終わってしまうと、書店で適当な小説の文庫本を見繕って買うようになった。よく選んだのは、恩田陸と本多孝好の作品だった。星新一、東野圭吾や唯川恵なども1冊だけ試したことはあるが、それらの作家を追っていくことにはならなかった。先に挙げた二人の作家だけは、その後の自分の小説創作に少しだけ影響を与えた節もあった。

当時の私は、私が選んだのではない物語も気まぐれでかじったことがある。伯母の元に行ったときには毎回、時雨沢恵一「リリアとトレイズ」を盗み読みした。また、家族が買っていた少女漫画のいくつかも捲ってみたことがある。その少女漫画は確か『ちゃお』連載の単行本で、バンパイアの少年が人間の女の子に接触するという内容だった。わりと際どい身体接触があった記憶がある。こうした作品は後の自分のコンテンツ選択には関わらなかったが、当時の私はかなり雑食だったことだけがわかる。そしてこれらの作品の内容からもわかるように、私は自身の第二次性徴にも先立って、異性愛の物語に慣れていったのである。

映像作品

映画はあまり観ない家だったので、憶えているものはほとんどない。ただ、「クレヨンしんちゃん」や「名探偵コナン」、「ポケモン」の映画のいくつかは通った記憶がある。ジブリ系もほとんど通らず、大学以降に触れたものが大半だ。

テレビアニメに関しては、先に映画化されていた作品の他、ドラえもんやサザエさんやちびまる子ちゃんなど通り一遍のものたちだ。また先述した「金色のガッシュ」のアニメ版も見ていた。

いわゆる日朝や特撮はあまり見ていなかった。また、不思議とジャンプ系のアニメは全く見ていなかった。これが、以後の私のジャンプ作品からの遠さに影響していたかもしれない。

外で遊ぶことも嫌いではなかったが、外出できない日は図鑑を開きながら植物の絵を描いていた。植物の形態の多様さは単純に目に楽しかったのだと思う。ただ実際の植物採集や園芸には興味が無かった。

また一時期は周囲で流行っていたカードゲームをやっていたこともあった。これは「コロコロコミック」の影響が大きかった。カードに書かれたモンスターの姿やその舞台は、後述する私の妄想に多少の影響を与えた。また、そのカードゲームに倣って厚紙と特殊な折り紙でオリジナルのカードを作り、独自のルールを設けて対戦を申し込み、友人を困らせたりしていた。

妄想

小学校の高学年頃から始まったのは、それまで触れてきた作品たちの要素をツギハギにしたような、オリジナルのキャラクターや世界設定の妄想だった。主要キャラクターのそれぞれが特殊能力をもち、SDカードのようなものを読取機器に挿入することで、そのカードから武器や魔法の情報を引き出して用いることができた。奇妙なのは、戦う相手も目的もろくに設定されていないのに、装備やそれを支える仕組みだけがさまざまに考案されていたことだ。当時の私たちは自分たちが生み出したキャラクターを演じ、戦いに備えなければならなかった(この妄想の一部には、当時のゲーム好きの友達数人も参画していた)。実際に戦うべき相手などいなかったのに。

その妄想の中で、魔法に関する私の執着が生かされた記憶がある。韓国語のハングルが人工的に作られた文字体系であることを知り、私は独自の文字(アルファベットに対応する字形)を考案し魔法に関わる文字としてまとめた。すぐにその文字体系は捨て置かれたが、魔法の原理などの考察は疑似科学的な体裁をとりながらしばらく続けられた。

こうしたSF=ファンタジー世界設定とは別系統で派生した妄想もある。当時のクラスメイトが、「予知能力をもつ少女」の物語の原案を私のところに持ってきたので、それをもとにざっくりとしたシナリオを書いた。このシナリオは同時代の日本を舞台にしたもので、別の能力者ともモンスターとも戦わない人間ドラマだった。


ここで、時系列としてはいったん区切ることにする。
小学校卒業、時は00年代後期だった。

魔法への憧憬とその終わり

客観的に見て、周囲と比べて不自由なことはほとんどない小学校時代だったと思う。遊ぶ時間はたっぷりあったし、いつでも遊ぶ約束ができる友達も何人もいた(中学以降、そんな幸運はほぼ失われる)。特段身体の調子が悪いということもなかったし、勉強や運動で劣等感を抱くこともあまりなかった。家族関係も(少なくとも当時の私の視点からは)何も問題なかった。

そんな恵まれた日常を過ごしていたにもかかわらず(過ごしていたからこそ?)、私は日常を揺るがす魔法や武具に強く惹きつけられた。私だけが使える、望めば何でも実現できる力、無邪気にすべてを薙ぎ払える力に憧れていた。

魔法や武具に憧れることは、自分の身を守りたい、安全でいたいという気持ちと関係があったのかもしれない。物心つく前の私の話を聞くに、私は臆病な子どもだったらしい。不安が強いと言ったらいいのだろうか、安全でないことに我慢がならない、自分は保護されるべきだと強く信じているというか。詳しくは知らないが、離乳を嫌がったという話も聞いたことがある。また動物や虫や水生生物を基本的に危険と見なしており、海も山も好きではなかった。かりに外敵がいても視認できる原野のほうが安心できた。植物が好きだったのも、こちらから手を出さなければ害を為してくることがないからだ。蟻や蛙など、小さくて自分に脅威をもたらさない生物はさすがに恐れなかった。それどころか玩具にもしていた。

そのように臆病であることと、人並みに強欲でプライドが高いことは両立する。当時の私は年齢なりに健全な不満を抱くこともあったはずだ。なぜ永遠に夏休みではいけないのか。なぜ退屈な授業を座って聞かなくてはいけないのか、なぜ寒い中1500mも走らされるのか、遊び仲間のグループから異性がいつの間にか消えていたのはどうしてか。家から歩いて行ける距離に図書館が無いのはどうしてか。ほしいゲームが何でも買えるわけではないのはなぜか(もちろん当時の不満を今の私が正確に言い当てることはできないため、これらはすべて想像である)。そういう小さな不満を忘れさせてくれるのも、無料で入り浸れる剣と魔法のファンタジー世界だったのかもしれない。

しかし中学校に上がると、私は現実世界でそれまでなかった未知のトラブルに次々と遭遇した。すると妄想でない物事や、身近な人々との関わり方について考えざるを得なくなってしまった。それは不満というよりも悩み、苦しみだった。この国のこの地域のこの中学校のこの私という条件の下に起こる苦悩には、妄想の武器や魔法理論では歯が立たなかった。かつての私は最強の武器目録とわりあい高度な魔法理論をもっていたわけだが、それらは私の安全を確保してはくれないのだと結論した。

当たり前だが、現実の私自身は魔法使いでも剣士でもなかった。万能感と安全への渇望はしだいに魔法や武器と結びつかなくなり、とるべき形を失い燻っていった。私自身を疎外するSF=ファンタジー世界の妄想が、自由帳の中に残った。図書館に行く頻度は減って、児童書コーナーにはほとんど近づかなくなった。異世界の妄想を捨てたわけではないが、私はそこから分離された渇望を、魔法でも武具でもない形で、より私の生きる時代と地域に近い形で描写しなければならなくなった。

小学校までに私が接してきたコンテンツは、はじめから周りと共有することがないものと、共有前提のものがあった。前者は本、後者は協力や対戦をするゲームやカードゲーム、回し読みしていた漫画、家族と見ていたアニメ、集団での妄想などだった。しかし小学校を出ると、後者は急激に個人化する。カードゲームはやめ、ゲームは一人でやり、コロコロコミックの購読もやめた。家族とアニメを見ることは無くなった。かつての仲間に新しい装備や呪文をプレゼンすることもなくなった。勿論皆無ではなかったが、すべてが個人化する傾向にあった。

私は、魔法もなく遊ぶ友達もいない世界で新しい暇つぶしを見つけることになった。事態は新たな局面に移った。インターネットの登場である。技術自体はもちろん生まれた頃から存在していた。それにアクセスできる条件と、アクセスする動機が、自分に備わったのだ。

次は中学時代から書いていこうと思う。

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