『機動戦士ガンダムSEED(HDリマスター版)』について

2023/02/28

現在2クール目が準備されている「水星の魔女」を見て、他のガンダムというのはどんなものかと少し調べた中から選んで見ることを決めた。

遠い記憶だが、小学生かそれより前だったかに、エンディング曲1のSee-Saw「あんなに一緒だったのに」が実家の車の中などで流れていたのを憶えている。親かその関係者がこのアニメを見ていたのだろうか。

SEEDは人間関係が結構荒れているという前評判をいつか耳にしていたので、その部分を目当てにして観た。すると割と期待通りだったと思う。正直、モビルスーツやその他兵器を使ってドンパチやる場面自体に特段の関心はなかった。終盤にかけ戦闘時の映像の使い回しが増えていくことに制作者たちの苦労を感じた。


「慰めてほしいオーラ」のコミュニケーション

この作品で、毀誉褒貶激しいキャラクターの一人に「フレイ・アルスター」がいる。私もこのキャラクターの言動を見ていて平静ではいられなかった。

列挙するには時間が必要なので一つだけ選ぶと、第32話になる。彼女は、序盤は婚約者として親しくしていたサイ・アーガイルから主人公のキラ・ヤマトへ心変わりするのだが、キラは敵との戦闘中に生死不明になる。キラの友人たちが沈痛な面持ちで船内に留まる中、フレイはサイのもとに駆け寄る。そして何を言うでもなく彼のもとに居ようとする。すると、サイは彼女の様子を見ただけで、次のように言うのである。

サイ「トールがいなくて キラがいなくて
 みんな悲しいんだ

 オレも 悲しい」

フレイ「……」

サイ「だからオレ

 君を慰めてやることなんかできないよ」

フレイ「……」

サイ「ごめんな

 誰か他のやつに行って」

ここで重要なのは、サイが「フレイは自分を慰めてほしいと無言で示している」と感じ取り、そしてフレイもその予見を否定してはいない点である。

同意してもらえるか分からないが、この時の二人のように「慰めてほしいオーラ」が共有され、それを前提にコミュニケーションが行われることが現実にある。私の場合はあった。気遣ってほしい、慰めてほしい、淋しい、不安だ、そういう気分が混ぜこぜになった要請は、はっきりそう言わなくても伝わってしまうことがある。

そして、そういう雰囲気に対してサイのような態度をとってしまうのも私にとっては非常にリアルな体験だ。そのオーラを感じ取ったとき、「もう相手していられるか」「他を当たれよ」というような、独特の嫌な感じを憶えることがある。これは何に由来するのだろう? 彼女の様子が「誰かいてくれれば誰でもいい」ように見えるからだろうか? 自分がまるで頓服薬のように、手段としてのみ扱われていると感じるからだろうか? すると、私は私が他の誰でもない自分として尊重されることを切に希望しているのだろうか? だから苛々するのだろうか?

フレイに話を戻すと、実際彼女は「誰でもいい」のだろうか? なぜサイの友人のカズイや、他の船員では駄目なのだろうか? 現時点でサイが一番慰めてくれそうだからだろうか? 実際、何も言わなくても彼には慰めてほしいオーラが通じたのだ。きっと彼女は彼女なりに相手を選んでいる。しかし、(少し前までキラの側にいたという)前後の状況はどうでもいいのだ。いま淋しい、いま慰めてほしい、それが全てだ。キラがいなければサイだ。サイがいなければ別の慰めてくれそうな人間だ。そうやって彼女は生きていく*1。

近年はあまりないが、かつて私と接近した人たちの一部と私とは、フレイとサイのような関わり方を頻繁に行ってきたし、これからも行うだろう。私はあるときはフレイ側であり、あるときはサイ側である。もちろんそんなネットリした関わりを持たず、カラッとした間柄で付き合える人もたくさんいる。しかし彼らと関わっているとき、オーラと全く無縁であると思えるとき、ふと思う。彼らは寂しいと思うことがないのだろうか? また、相手の慰めてほしいオーラにうんざりしたり、見て見ぬふりをしないで済んでいるのだろうか? 私には分からない。そもそも知人の前で「慰めてほしいオーラ」について議論したことがないからだ。

ともかく「慰めてほしいオーラ」は私にとって非常に身近なものなのだが、それがフィクションの世界で描かれることは少ないように感じている(二宮ひかるの漫画には似たものを感じることもある)。だから32話のようにはっきりそれとわかるように描写されるとびっくりしてしまう。その場面に食らい過ぎたために、他の場面や人物の印象がすっかり薄くなってしまった。

まともに取り合う価値があるのかわからないが、フレイはガンダムシリーズ屈指の悪女といわれることもあるらしい。彼女は肉体関係を結んでキラを戦いに駆り立て、婚約していたサイをあっけなく捨て置き、かと思うと今回取り上げた場面のように縋ろうともするからである。しかし、彼女が男たちを動かしていたのが本当だとして、それはどうやってなのかが問題になる。魔法の原理も知ろうとせずに、魔法を使ったと騒ぐことができるなら誰でも魔女に仕立て上げられる。何でもありだろう。

今回見たように、人が何も言わずに相手を動かす・動かされるときには暗に共有されているものがあるのだ。私は、「オーラ」が強い意味で実在すると言っているわけではない。それは当然、彼女の身体から物質的に出てくるものでもなければ、握手のように特定の意味を伝えると広く理解されている動作やポーズのことでもない。コミュニケーションをとる一方が相手の気持ちを名指し、他方がそれを否定しなかったときに立ち現れる共同主観的なものなのである。

性が絡む恋愛が描かれ、それを動機に行動するキャラクターが現れるや否や「操った」「操られた」と嬉々として騒ぎ出し、それで一方を全く異質な存在と扱って悦に入る輩がいる。度し難い愚かさだ。こちらの望むことを叶えさせるためにはそれを相手に伝えなくてはならないが、それなら互いに(くだくだしく説明しなくとも)通じ合う余地がなくてはおかしいではないか? そこには協力と交感があるのだ。恋愛が闘争や支配の手段として雑に嫌悪されるのは、現在の惨い性差別環境の中では仕方のないことなのかもしれないが、そこには複数の人間が瞬時に魔法のように互いの心を作り上げていく協力の技術があるはずだし、相手はコミュニケート可能な存在だと認める契機もあるはずだ。


32話の短いやり取りだけでも、私は記憶する価値があるのではないかと思った。以下は適当に思ったことを書く。


世界設定と用語の導入の仕方

1話目から怒涛の展開なのだが、7話あたりで戦争の背景がわかるまではまったく気分が乗らなかった。なぜ戦いが起こっているのか説明は行われないし、よくわからないまま追いかけっこが続くのでは、見るモチベーションを保てない。

しかし、膨大にある設定や専門用語の説明は違和感なくバランスよく配置されていて、スムーズに理解できた。

説明がいかにも説明だという感じになるのは、どのような状況で情報が提示されるかによるのだと思う。Xという事柄や用語について、「Xとは何か?」という質問に、「Xとは……」という事典的な説明が続けば、いかにも説明口調だなという印象が強くなる。それを防ぐには、視聴者に何も情報を与えない状態で、Xという言葉を登場人物たちに(複数の状況で)使わせればよい。言語ゲームじゃないが、その言葉が何に対して、どういう状況で使われるのかを示すだけで、なんとなく語の意味に当たりをつけることができる。例えば「Nジャマー」の実物やその原理について、誰かが誰かに説明する場面が一切なくとも(実際ほとんどなかったと思う)、それが核兵器の使用を不可能にし、電波通信を大きく制限することが人々の会話から推測できればいいのである。

また、ジンとかバクウとか、ザフト側の機体の名前は短くて英単語でもないので、しばらくの間「何のこと?」となるのだが、まあこれは戦闘シーンを真面目に見ていない自分に非がありそうな気もする。


コーヒーの描写

制作陣にはコーヒーに造詣深い人がいるのだろうかと感じた。ハワイコナとか、焙煎を深くするとか、サイフォン風の抽出器具とか、ある程度のマニアじゃないと知らないような要素が散見された。

これらの要素が作品の世界観にいかにかかわるかという点だが、コーヒーにこだわる人物(ex. バルトフェルト)や陣営が、豆の産地との物流ネットワークを持っている=それだけの権力があるという意味付けにはなっているのかもしれない。コーヒー豆というのは採れる場所が限られている(産地は赤道近くの高地が多く、「コーヒーベルト」と呼ばれる)ためである。





*1 あるいは、32話で急にフレイがサイに近づいた理由には別の解釈も可能である。当の場面では、フレイはサイが悲嘆にくれるミリアリアを気遣っているのを見て、彼についていくのだった。それ以前の彼女はキラがカガリと話をすることに異常に気を配り妨害しようとしていたのを鑑みるに、フレイは、自分と一定以上親しい相手が他の女性に興味を持ったり気遣ったりすること自体を不安に感じるのかもしれない。常に自分だけを見て配慮してくれないと不安なのだ(そういう心理があることはわかるが、にしても過剰だろうという気もする)。

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