『少女革命ウテナ』について

2023/03/18

監督が同じである『輪るピングドラム』(2011)はまったく面白みが分からなかったので、この作品を見ることはないだろうと思っていた。しかし、少女漫画や女性向けフィクションに関する評論、フェミニズムを標榜する人の文章などを読んでいると、嫌というほど作品名を聞いていたので、そんなに何かあるというなら見てみようと考えを変えた。

結果、物語としてウェルメイドだったかと言われたら疑問符が浮かぶが、一部のキャラクターの描き方や画面の演出方法にはとても心を揺さぶられるものがあった。当ブログの他の記事に則り、その点だけ雑駁に書き連ねていく。


天上ウテナと姫宮アンシー

古い作品ならよくあることだが、私は当作品のキャラクターや物語について、他人の感想や紹介から膨大な前情報を得た後で視聴を始めた。彼女2人は、愛憎の末に男たちを置き去りにして深い信頼関係を築くらしいことがわかっていた。

しかし、視聴を始めてから抱いた感想はイメージと少し違っていた。視聴してすぐにわかるのは、二人は作品の終盤まで大して仲良くはなく、互いにさしたる興味も無いということである。言うまでもないが、いくらウテナが学園女子たちにとってのアイドルであろうと、同性のすべてと相性がいいわけではない。むしろ、ウテナはアンシーとはかなり違ったタイプの人間であり、彼女のことをまるで理解できなかったのではないかと思えた。

それが浮き彫りになるのが11話である。アンシ―をあくまで「薔薇の花嫁」と扱う生徒会長・桐生冬芽に対して、ウテナは「イヤだろ!? 薔薇の花嫁なんて」とアンシ―に詰め寄る。「きみの考えをはっきり言ってやれ!」と。

この場面を見たとき、アンシ―が「わたしの考え……?」と繰り返すところが私には強烈に印象に残った。「わたしの考え」とは? それがなんなのか、どういうことを指しているのか、たぶん彼女にはまったくわからないのだ。薔薇の花嫁をやりたいとかやりたくないとか以前に、何かを自分の望みとして定めたり定めなかったりできる自分がいるという発想自体が理解できないのだ。

そして結局この場面のアンシ―は、ウテナの言った台詞と一字一句違わずに、「わたしは薔薇の花嫁扱いされるのが嫌です」と口にする。だがこの言葉はアンシ―の考えというよりも、ウテナがアンシ―に言ってほしかった(持ってもらいたかった)ウテナ自身の考えである。実際その場を収めても、後の彼女の振る舞いはそれ以前とたいして変わることはない。エンゲージしている相手にはNOと言わず、微笑みをたたえて剣を提供する。

決闘に勝利した冬芽が「アンシ―、きみは薔薇の花嫁でいられて幸せだな」と言えば、「はい わたしは 薔薇の花嫁でいられて幸せです」と呼応する。真面目なシーンなのに、完全なオウム返しでどこか滑稽なほどである。アンシーに自分の言葉を繰り返させたという点で、11話のウテナと冬芽は共通していた。つまりこの時点のウテナはアンシーに特別な関わり方をする人間ではない。彼女とエンゲージする資格のある一人、というだけで。


従順あるいは意志の無さ?

11話に見たようなアンシ―のあり方は、「主体性」とか「個人の意志」という発想を誰もが持っているはずだと考える人にとっては、つかみどころのない不気味さすら覚えさせるものかもしれない。しまいには25話の西園寺のように、「薔薇の花嫁に意志なんてないんだ」と要約してみたくなるかもしれない。ただ私はこういう人を他の人々や私自身から切り離して愚鈍だと言いたいのではない。私も「わたしの考え」という発想が意味わからないなと思うことはあるからだ。ウテナや、二人を見る常識的な視聴者のほうは「わたしの考え」をもっているのかというと、別にそうでもないのではないか。例えば基本的人権、わたしが嫌と言ったことは強制させられるべきではないと考えることは「わたしの考え」なのか? それは誰とのどんな状況でも意識されるものなのか? 私はいつもその「わたしの考え」のもとに行為しているのか? それが嫌ならどうありたいというのか? 「あなたはどうして弊社を希望したのですか」?

実際、ウテナも自分のしたいと思うこと、ポリシーを説明しろと言われると答えに窮することがある。ウテナが、「どうして薔薇の花嫁などということをやっているのか」とアンシ―に問うたとき、彼女はそれには答えず、「どうしてウテナ様は男装をしているのですか?」と反問する(2話)。ウテナは「これは……なんとなく まあ 好きだから」とお茶を濁すが、アンシ―は「私も同じです」と答えていた。

私は、「薔薇の花嫁」という役割の起源や、姫宮アンシーがなぜそういう役割に選ばれたのかという物語上の事情にはあまり興味を持てない。そういうのは考察好きな方々にお任せする。アンシ―はどういうわけか彼女のするような振る舞いをするのであり、ウテナもそうである。もっともウテナの男装には、自分を救ってくれた王子様になりたかったからという説明も付されるが、なぜ形から入るのかということの答えにはならないだろう。


重要なのは、姫宮アンシーが11話でみせたような姿が、この時代のフィクションで場を持っていたということだ。私の見るところ、同時代の他のメディアでも同じようなキャラクターの姿が描かれていたことがある。漫画だが、『本気のしるし』の中盤までの浮世、『ハネムーン サラダ』の3巻までの一花。他にもきっとあるだろう。その姿を「従順」の一言で片付け、持ち上げたり貶したり、語る側から切り離すのはいい加減にしなければならない。従順とは何であり、あなたは従順ではないのかを考えなければならない*1。


決闘は何の解決でもない

ウテナは11話で決闘に敗れて、アンシ―とはエンゲージを解消してしまうことになる。しかしその次の12話で早くも冬芽に決闘を挑み、運よく勝利してアンシ―を取り戻す。ではこの2回の決闘が二人の何を変えたのかというと、何も変えていないのが面白い。運悪く負けた冬芽が自信を失くして引きこもっただけである。

私の好みの話をすると、デスゲームでも競技でも何でもいいが、勝ち残ること自体が目的であるような話が嫌いだ。勝てば官軍、勝利が正しく解決を導くという考え方が嫌いである(同様に、負けたら素直に悔しがり、勝ちを取りに奮起すべきという考え方も嫌いだ)。なぜなら、私が生きていく中では、ゲームのルール自体がおかしい場合や、行うゲームの内容が問題解決法に対応しない場合のほうが多いからである。

閑話休題。決闘は何も変えなかったことが顕著にわかるのは、14話から続く黒薔薇編である。この期間では、身近な人との葛藤を抱えた人物(梢、枝織、茎子)が戦う力を与えられ、こじれた人間関係の一切を変える(「世界を革命する」)ために、薔薇の花嫁を手に入れよう(あるいは、抹殺しよう)とウテナに決闘を申し込む。その決闘の中で、彼らの葛藤が表現されることになる。

しかし、当の人物の葛藤には、ウテナもアンシ―も本来無関係な場合が多い。そもそも当の人物と二人が面識すらない場合さえある。だからいくら決闘の中で二人に対して自らの心の叫びを聞かせたところで、二人にとっては「知らんがな」という感じである(17話の枝織や、21話の茎子などは特にそうだ)*2。この場合、決闘は単なる八つ当たりであり、葛藤を抱えた当の相手とまっとうに向き合わずに「世界を革命する」可能性へと一時避難することである。

そして決闘で負けても、彼らは何かが吹っ切れたということもなく、相変わらず葛藤を抱えたまま元の日常に戻るだけだ。私はここに、葛藤を抱えた当の相手とは(場合によっては関係が破綻するリスクも覚悟して)「現実に、言葉で」向き合うしか、関係を変えること(=「革命」)はなしえないという教えを見たくなる。もちろん、向き合わないならそれも自由ではあるが。

決闘場という空想的空間の中での破壊は、視聴者にとってはお約束の楽しみであり見どころだが、決闘を挑んだ者の葛藤を変えることは決してないのである。極論すれば、誰が勝ち誰が負けようが、どういう攻防が展開されようが、彼らの人間関係にとってガス抜き以上の意味はない(一度目のウテナvs冬芽は影響があったが、1話でリセットされる)。決闘は劇的な解決を示さず、その勝敗は話の目的にもならない。それは、38話でウテナが鳳暁生と決着をつけられなかったことにも表れているだろう。大仰な決闘演出と、決闘では変わらない人間関係とのズレが面白い(と同時に虚しい)ところであり、このアニメが決してトーナメントバトルものには分類されない理由である。決闘後にしばしば「結局今のバトルは何だったんだ……」という気分になっていたのは私だけではないと信じたい。



黒薔薇編のエレベーターのカウンセリング感、「異性の双子と屈折した愛情」という構図のゼロ年代への継承、少女漫画の脇役への着目、ウテナ・アンシーが寝間着で話す場面、登場する種々の動物と人々の関わり方など、個人的に言及したい点はまだまだあるが、長くなってしまったのでいったん切る。もしくは、個々のトピックについて分割し第1ブログのほうで何か書くかもしれない。

色々書いたが、ピングドラムよりは遙かにおすすめである。一昔前の少女漫画のお約束を心得ていて、それに一ひねり加えたものを見てみたい気持ちがあるなら、視聴して損はしない。



*1 また、こうして描かれるのはどうして女性キャラクターが多いのかということも考えなくてはならない。ジェンダーの差を無視してこのことは語れない(今回は捨象しているが)。

*2 すでに同じ趣旨のことを書いている方がいた。「『少女革命ウテナ』姫宮アンシーはなぜモテるのか」https://ao8l22.hatenablog.com/entry/2015/01/04/110223

「少女革命ウテナ」というアニメで描かれる決闘というのは、見れば見るほど、ウテナとアンシーにはなんら関係のない人間関係の情念を、ウテナとアンシーを鏡のようにしてデュエリストが自覚させられる構造になっている。 
最初はアンシーに執着していた西園寺も幹も、決闘を通じて「本当に欲しいもの」に向き合った結果、アンシーへの執着を薄くしていく。それは、アンシーが彼らにとって「欲しいものを与えてくれそうな人」ではなくなっていくからだ。

たしかに生徒会メンバーの中には、決闘の末にアンシーに執着しなくなり「薔薇の刻印」を棄てる者も出始める(37話。駆け足なまとめ方ではあったが)。黒薔薇編のデュエリストとは違い、決闘は彼らにとって変化のきっかけにもなっている。 

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