滝本竜彦『NHKにようこそ!』(小説版)について

2023/04/25

この作品は漫画版とアニメ版があるが、随分前、たしか大学に入る直前くらいに漫画版を最後まで読んだことがある。アニメは見ていない。当時はあまり感じるところがなく、なぜこの作品がそこまで人口に膾炙したのかよくわからなかった。

最近になってなんとなく、この時代の有名作品に触れ直したくて読んだ。印象は漫画版の読書時とは全く違った。うまく距離がとれず、読んでいてつらい話だった。漫画の『メンヘラちゃん』等と同じ読書体験だと思った。


中原岬を止める方法

中原岬ってこんなキャラクターだったか? と思う。もっとぶっ飛んでいてコミカルなイメージだったが、全然違った。実在していた。高校のクラスに一人はいそうなほど凡庸で、内気で半端に知識はある、周囲の大人との相性が最悪な女の子だった。自分のことを要らない子だと思ってしまった女の子。


終盤で、岬はODから自殺の決行まで進んでいく。佐藤はそれを追う。私はこのパートを読むのが一番つらかった。自殺しようとする人にどんな言葉をかけられるというのか、それは私自身も何度も繰り返し自問し、未だに何の答えも見出せない、考えるだに無力感に襲われる問いだからだ。そして、私は佐藤のように自分の命を擲ってもいいとは思えなかった。崖から飛び降りるほどの思い切りはなかった(彼のような強力な幻聴や英雄願望もなかった)。でも、逆にそこまでするつもりが無ければ、止めに行ったり、死のうとする人と関係を続けたりしてはいけないのかもしれないと思った。

佐藤のダイブが示していたことは何であるか。自殺しようとしている人に干渉する唯一の方法は、その人が何をしようとしているかをその人に見せること、つまり目の前で死んでみせることなのかもしれない、ということだ。そのときはじめて、自殺しようとしている人は自殺される周囲の人間たちの動揺を内側から感覚することができるからだ*1。おそらく、言葉を相手に差し込もうとするのではなくて、相手の鏡になることでしか不可能なコミュニケーションがある。しかし、そのような佐藤の行動は馬鹿げていると私は(そして最終的には岬も)思う。当たり前だが、どちらかが死んでしまったらコミュニケーションもクソもないからだ*2

この物語で、二人のコミュニケーションが終わらなかった、つまりどちらかがどちらかの全き身代わりにならなかったのは偶然にすぎない。もし佐藤が日本海に落ちて死んでいたら、佐藤は本来自分が抱えるはずだった居心地の悪さと無力感をそのまま岬に押し付けて去ることになる。岬の側の収支がマイナスとなることは明白である。彼女は自殺を完遂しなかったが、自分を殺そうとしたエネルギーは佐藤という鏡に跳ね返ってそのまま彼女を刺し貫き、彼女は死なれる者であると同時に死ぬ者となる。自分自身の喪を生きるような羽目になる。もはや佐藤を殴りつけたり罵ったり、跳ね返ったエネルギーをもう一度相手に返すことはできないので、収支はマイナスのままだ。彼女は、佐藤がそう望んだように「ニコニコ朗らかに暮らしていける」ことにはならないだろう(少なくとも数年のうちは)。


その他、山崎のエロゲ論

冒頭から、主人公のモノローグが完全に統合失調症のそれでキツかった。「監視されている」、「悪口を言っている」等の感覚はある意味で伏線であるとはいえ、このような状況の人に治療の糸口すら与えられないどころか、薬の目的外使用でどんどんダメになっていく場面が続くと読むのを止めそうになった(実際数ページは飛ばした)。

ドラッグの描写が多すぎるが、現代日本でそんなに簡単に入手できるものなのだろうか? なんか自己流のブレンド方法なども書かれていて、真似する人がいたら結構ヤバいんじゃないかと思う。

「女は人間じゃない」とくだを巻く山崎の語り口には既視感しかなく、オタク男の性愛の核にある思想は20年前から全く変わっていないことに慄然とした。彼の論は決して過去になっていないので、自分のこととして引き受け検分する必要性を感じた。

また山崎はエロゲを愛していながらも、その業界を動かす欲望についてはいやにシニカルな見方をしている。結局、エロゲのヒロインはどこまでも都合がいい存在でなければならず、だからロボットやメイド、幼馴染といった逆らえず自分をわかってくれる性質が備わりがちなのだと。この見立ては、「現実の女は都合が良くない」という認識と対になるものだと山崎によって示されている。こういう虚構/現実の対置はもはや失効しているのだろうが、当時エロゲヒロインたちの振る舞いは、現実の女性への幻滅と逆恨みの陰画だとされていたのだ。もちろんそれで語り終わるほどに単純なキャラクターと物語ばかりではないにせよ、オタクがどれほどエロゲは素晴らしいと語ろうとも、その声音には、どこか自嘲的な響きが隠せなかった。現実の女性にせよエロゲにせよ、彼らは自分が依存しているところのものを見下したり賛美したりし、なかなか自分と同じ目線に置くことができなかった。その軽蔑と賛美の牙こそが彼らの「女ぎらい」の特質なのであり、彼らは現実の女性を(意識の中で)引き裂くようにしか、エロゲと付き合うことができなかった。

エロゲという言葉には、それを取り扱ってきた者たちの「女ぎらい」の経験が染みついている。エロゲはたんに現代のスマホゲームや深夜アニメへと流れ込んだ透明な湧き水ではない。だからエロゲを燃やせ、歴史を修正せよというのではなくて、その経験を自分自身のことと思ったうえで、別の仕方でエロゲを語ることが必要なのだ(私はいつもこんなマニフェストを言い、ではその仕方とは何かをちゃんと説明しないでいる)。




*1 ただし、これは互いが相手に死んでほしくはないと望んでいる場合に限った話で、この小説の結末にもあるように、「別に相手が死のうがどうでもいいよ」と思っていた場合にはそんな感覚もないだろう)

*2 死んだ人とコミュニケーションを行ったと証言する人たちは思いのほかたくさんいて、そのコミュニケーションの体験が遺された人たちのプラスになることはある。参考:自死遺族の癒しとナラティヴ・アプローチ―再会までの対話努力の記録 https://amzn.asia/d/hzTCJWd

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