ふじた『ヲタクに恋は難しい』について (2)

2023/06/05

その1に続いて。とりとめのない感想が続く。


「ヲタク」という表記とお約束

最近は「オタク」の表記のほうがよく見かけるため、個人的にはこの表記に一昔前の雰囲気を感じる。「漏れ」みたいな一人称と同じだ。だいたい、口語で話すときにはどちらの表記だろうと「お」の音なので、オタクがインターネット掲示板内でしかイキイキしていなかった頃の産物に思える。

この表記からわかるとおり、作中に描かれているオタク要素は2023年現在からするとかなり前時代的なところがある。具体的なキャラ名・名言などで参照されている作品は、90年代からゼロ年代初頭くらいに知られていたものばかりである(ゲームについてはその限りではない)。この作品が発表されたのは2014年前後であり、当時青年期を迎えていた人々がオタク的な教養として備えていた知識を鑑みれば納得はできる。

かつてのオタク的な教養は、お約束の設定や掛け合いを認識し楽しむために必要とされていた。例えば二藤は、オタクとして成長するにつれ「狙い過ぎだと感じていたビジュアルや設定を、そうした思惑も込みで楽しめるようになった」と感慨深く語る(4巻, p. 4)。こういう真面目なのか不真面目なのかよくわからない消費態度が昔のオタクの厄介なところだ。

そして昔のオタクのお約束というのは、女性キャラクターの顔や身体の一方的な評価を含むものが多かった。たとえば、女性キャラクターについて「ブス」という言葉が平時で使われたり、胸の部分が小さいことや大きいことを執拗に嘲笑や揶揄の種にしたりする描写がある。これはたしかに当時のオタク文化全般に浸透していたようであり、当時の少女漫画や国産RPG(e.g. テイルズオブシリーズ)などでも珍しくはない。ただ現在の私は、こういうものがたとえお約束なのだと重々承知した上でも、どうしてそれが面白いのかよくわからなくなっている。お約束はそれを同じように面白がる人が周囲から消えたとき、面白くなくなるような気がする。つまりお約束を楽しめるかどうかは、それを楽しむ内輪にいるかどうかに相当程度依存するのではないか。

また、シャツ、ジーンズ、パーカーなどの服装を好み短髪である桜城は、作中でしばしば男性に間違われる。このような、ジェンダー表現と自認の距離を利用して話を作る手法もオタク文化の中では古くから定番だ。とはいえ桜城の場合は、なにか都合があって男らしい服装をしているのではなく、偽ろうという意志もないのだから、ミスジェンダリングと言われる場合に当たるような気もするが。

こうしたお約束に一捻りを加えず、作中にそのまま引き継いだ*1ことが「ヲタク」表記に現れているとしたら整合性はある。ヲタクたちの間で共有されていた、非実在女性の容姿に関する反射的な期待のカタログとして、この作品は価値があるだろう。

ちなみに架空のキャラクターや物語を評するにあたり、もしそれが現実の人々の考えと地続きであると考えた場合問題があれば問題ありだと言うのが最近のトレンドだと感じている。その際、狙い過ぎだと感じるとかそう感じないとか、また一種のお約束であるとかそうでないとかは問題を免除しない。問題があるものは問題があるのだ。基本的には私もそれに乗じるつもりである。「お約束だとわかった上で楽しむ」というヲタクのスノッブな態度は、結局のところ現状の追認と内輪の外の他人たちの軽視を促すものだったからだ(所謂「アイロニカルな没入」。しかし、こうした切り捨ては大雑把では、と思うことも少しある)


スポーツをやるオタク

ひねりのない外見至上主義はともかくとして、前記事でも述べたように、この物語は様々なオタクの多様性を描いているのも確かだ。当たり前だが、登場人物全てが非社交的・インドアで体力がない二藤宏嵩のような人物ではない。

かつてバレーボール部に所属していた樺倉と小柳が知り合うエピソードは、爽やかな学園青春恋愛モノとしてそのまま通用しそうなところがあった。バレーボールに打ち込む高校生の情熱の中に少しだけ、アニメ視聴者としての愛好が接合されている樺倉の姿は、少年誌の漫画・アニメと競技系部活とが相互に影響し合いながら一部の学生の来歴を作ってきた状況を思い出させる(ジャンプ系スポーツ漫画の影響で実際にスポーツを始めた人の話などはよく聞くところだ)。不思議とラブコメ作品では出番が少ない気がするが、スポーツを観るだけではなく、やる(やっていた)オタクが存在するのである。


オタク趣味の苦悩と喜び

オタク趣味をもつ人物が中心にくる物語ではオタク趣味の楽しさが強調されることが多い。趣味はふつう楽しいから続けていることだと思われているが、この物語は趣味が高じるにつれオタクが直面する苦しみも描く。例えば桃瀬の行う同人活動や小柳の行うコスプレは、少なくない時間と資金をつぎ込む上、プロのクリエイターと同分野の能力が要求されてくる点で、欧米圏で研究されてきた「シリアスレジャー」といえる側面がある。

こうした手間のかかる趣味は楽しいだけでなく、自分のイメージに技量が追い付かない苦しみも味あわせるが、その苦しみも含めて趣味の楽しさと感じられる。それが桃瀬と小柳に共有された趣味観である。5巻、Episode35から2人のやり取りを抜粋する。

小柳:ねぇ なる?

 趣味って 自分が楽しめて こその趣味なの
 趣味のために苦しい思いをするなら 意味がないんじゃない? 

 

桃瀬:どうしてって… 花ちゃんが言ってたでしょ?
 自分が楽しめてこその趣味だって…

 本気でやらなきゃ
 妥協したら楽しくないじゃん

小柳:ありがとう なる…
 おかげで大事なことを思い出したわ

 好きなものを自分の手で表現する
 そのための苦悩すら楽しいことなのよね…

また、近年ではコンピュータゲームの腕を磨くことはスポーツ選手の修練と共通の枠組みで考えられており、その点で二藤のゲームプレイも似た意味を持ってくるかもしれない。彼が真剣な対戦ゲームで負けたときの無念は、スポーツで負けた選手の無念ときっと通じ合うところがあるだろう。


作業的にゲームを続けること

しかしこの作品の中で私が注目するのは、オタク趣味の継続が楽しくも苦しくもない気分と関連づけられる描写である。オタク趣味を心から楽しいというほどの自信はないが、なんとなく習慣的に続けてきた人たちの存在が示される物語は割と貴重だ。

私は昔から、なぜ自分がゲームをしたり物語を読んだり書いたりするのかと考えた時に「一人で時間潰すにはそれくらいしかなかったから」という実感があった。ただ誰ともコミュニケーションをしない時間を耐えるためにそうしていると感じられ、その時間が楽しいのかそうでないのかわからなくなることが頻繁にあった。何かが楽しいというのは、何かをしている自分の姿を(「楽しそうだね」と言われるなどして)不意に捉え返し、目前の相手の興奮に自分の興奮を見出すことがあるから、そう感じるようになるのだ。独りでそんなことは起こらない。こなすべき目標を無表情で淡々とこなすだけであり、その目標を達成し蓄積されたデータが自分のしたことの意味をかろうじて支えている。

この、作業的とも言えそうな形でオタク趣味を続けてきた作中人物がいる。大学生の桜城である。Sはなにか心を乱される出来事があったとき、一人でゲームに没頭することで心を落ち着けようとする。その行為によって感じられるのは楽しみや苦しみといった興奮ではなく、つつがなく繰り返される日常に戻ってきたという安心である。桜城のエピソードは、他の人にとっては買い物や食事や旅行になるのだろう、気分転換の習慣と化したゲーム行為を正確に描き出している。まさにSにとってゲームに集中することは「自然と身に着けたメンタルコントロール法」であると言われていた(10/p. 104)。

ただ、もちろんその側面だけならラブコメも話の起伏も何もないので、作中では桜城のゲームプレイにS自身の様々な気分や情景が重ね書きされていく。桜城が好むのは複数プレイも許容するゲームタイトルであり、そのゲームを知人同士でプレイすることで、ゲーム友達と一緒に遊んだ思い出もそのゲームに帰属していくことになる。そのとき、ゲームプレイは再び楽しさと結びつく。

桜城にとってオタク趣味は、それによって人々と楽しく遊んでいた記憶と、時間から離脱したかのような単純作業が重なるところである。後者の側面を私は忘れたくない。オタク趣味は誰でもいつでも結局は楽しいから継続しているのだともし誰かが言うのであれば、私はそれは違うと言いたい。世の中には、誰かとゲームを楽しんだりマンガや色々なフィクションの話題で談笑したことがあっても、今はそのように遊んでくれる人がいなくなってしまった人がたくさんいるはずだ。それでも彼らは一人遊びを続けるしかない。仲間はいない、楽しいのかどうかも自信はない、それでもなんとなくオタクを続けてしまっている人たち、彼らがその一人遊びをずっと続けていく物語が私はもっと見たい。


その他

言及しなければならないのは、数話続く比較的連続性のあるエピソードの間に挿入される、脈絡もないパロディシーンである。異種族化、オンラインゲームでの二頭身キャラ化、BL妄想など、時空や性的指向をガン無視したセルフ二次創作と言っていい表現だ。たまたまこれと同時に読んでいた、高河ゆん『超獣伝説ゲシュタルト』(1992-2001)にも話と話の間に類似の表現が見られるあたり、割と歴史が古いのかもしれない。

なぜこういうことをする必要があったのだろう? 私にはいまいちその必要性が直感できないので、なにか理屈を考え出してわかろうとしてしまう。一つは、キャラクターの図像とはそもそもマンガ上で複数描かれているものであって、それが名指されたり何らかの連続性を仄めかされることによって「キャラクター」になるという構造を前提に考えることだ(cf. 岩下朋世『少女マンガの表現機構』)。こういう構造でマンガができている以上、さっきまで描かれていた図像が次ページで突然別の服装に変わったり二頭身化したり変身したりしても、読者はそれらを別の登場人物だと理解することはなく、「同じキャラだ」とわかってしまう。むしろそういう目まぐるしく変わるトンマナの中でこそ、登場人物の性格や振る舞い方の特徴が読者に感受されていく。それがマンガを読めるということだ。

すると、図像を拡大縮小し、色々な格好をさせ、ありえない世界設定に置き、異種族化する操作の中で、当作のキャラクター達はその強度を試されているのかもしれない。それは、所謂「ゆっくり」や「やる夫」が、インターネットの人々によってオモチャにされることで、どの次元の文化とも接合可能な融通無碍性を得たプロセスと似ている。二次創作とキャラの強度については最近考えているが、引き続き検討する必要を感じている。


[了]



*1 この断定には無理があるかもしれない。小柳・桃瀬がペアでコスプレをする際には、互いの体型の差はコスプレをするキャラクターに合わせて調整される必要がある。したがって、彼女たちの身体の評価軸は完全に他人たちに委ねられるのではなく、目標のキャラクターにどれほど近づけるかという点に移行することにもなる。キャラクターが彼女たちの身体の評価軸となる。

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