『アリスとテレスのまぼろし工場』について

2023/09/22

岡田麿里監督・脚本とのこと。岡田監督の関わったものとしては『花咲くいろは』と『true tears』『とらドラ!』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』しか私は知らない。後2つについては先程調べて知ったくらいで、あんまり作家性みたいなものを意識したことはない。なんか感想を抱きづらい作品が多いなと感じる。『Canvas2 〜虹色のスケッチ〜』の脚本も書いていたようだ。

その筋の人にブチギレられそうだが、『リズと青い鳥』の人(山田尚子)と同じだと先ほどまで思っていた。違ったようだ。

色々苦手だなと思うところもあったけれど、「世界がこのまま続いてほしいとかぶっ壊れてもいいとか、この地域はクソであそこは良いとかいう信条は、ちょっと恋人ができたというだけで簡単にひっくり返る程度のこと」だと明確にしている気がしていて、そこだけは自分の実感と近いと感じた。自分の立ち位置がわかっただけでもよかった。


以下からネタバレ感想が始まります。ご注意を。











出口のない見伏町、生の実感を求めること

あ、『タビと道づれ』みたいな話? と途中で思ったが、違った。もっと救いのない設定だった。見伏町は同じ一日を繰り返しているのではなくて、普通に時間が経過している世界から全く個別に切り離されたまま物理環境の変化が止まっている(昼夜の交替はするが季節は変わらず)。町と住人がセットで幻なので、住人はかりに町の外に出たところで消えるだけである。そもそも通常時(空が割れてないとき)は周囲の世界から空間的にも隔絶されていて本当に詰んでいる。

しかも、物理的な変化がもう起こらないという自覚は町の全員にある(いくら日が昇っても記憶はリセットされるわけではなく、保持される)。そりゃ絶望して消えたくなる人もいるわ。

物理的な変化がないということは大災害とか世界の終わりみたいなものも向こうからは来ないわけで、そうなるとこっちのほうから性や死に近づいて生きてる実感を求めるというのはよくある流れだろう。「平坦な戦場でぼくらが生き延びること」。私は世界がどういう状況になろうが身体的に痛いのは絶対に御免こうむるが、何もストレスがない状態がよいと考えているわけではない(もしそうならわざわざ休日に外に出たりしない)ので、まあ気持ちは分かる気がする。


睦実

お金も絡まないのにこんなに露骨にファム・ファタール演出をやる若年女性は実在しないだろとツッコミを入れたくなってしまう(たいていファム・ファタールと言われている人は男の側が自分の中の性欲を投影しているだけだ)。実際、中盤では正宗に殴りかかって逆に跳ね飛ばされていたし、下手に挑発するのって危険すぎる。でも私の見てきた世界が単に狭いだけかもしれない。恐れ知らずの人はできるのかもしれない。あるいは、そのような危険も生きてる実感を求めることの内だということか。(よく考えたら金なんて貰っても見伏じゃ無意味だ)。

ただ序盤の睦実は冷静な観察者でもあり、なぜか男子中学生の心理をよく知っている。同性愛しぐさを茶化したりムキになって否定することで「男」たろうとする、中学生あたりの最も露骨なホモソーシャル性を彼女は理解しからかうことができる。できればこの世から消えたほうがいい一連の流れではあるが。


園部裕子と睦実の関係、恋愛ゴシップ

前半の、園部裕子と睦実の関係については色々と憶測を呼ぶような気がしており、私は細かいところを全部忘れたので適当なことを言うが、裕子が正宗に惹かれていく様子を睦実は感じ取り、そのやっかみ半分、共感半分でからかって遊んでいたということなのだろうか。単純に嫉妬とか、蹴落とすとか、ズッ友(死語か?)とか、そういうことでもないと思う。もう見るのも嫌な相手に宿題届けたりはしないだろうし体は張らないだろう。このあたりは、true tearsの主人公母と比呂美や、二宮ひかる『ハネムーン サラダ』のメインヒロイン2人の関係に通ずるものがある気がする。人物構図的に、月子『彼女とカメラと彼女の季節』のような雰囲気もある。上履きのくだりについて正宗が困惑していたように、ここは男子には飲み込みがたいなにかがあるとされているようだ。私が映画館を出たとき、後ろから「女が作りそうな映画だと思った」と後ろから女性の声がした。

しかし、こういう一熟語で表せないような関係を描くことにはもっと時間が必要だったろうという気がする。園部裕子は睦実に比べて出番が少なすぎ、あまりに早く最悪の形で物語から退場となる。というか他のシーンでもあったが他人の告白を覗いた上にリアルタイムで茶々を入れる奴らは普通に滅ぶべきだろう。まあ閉鎖的人間関係では引っ張ってもどうせそのうちバレて気まずくなったり煽られたりすると思うので、その経緯をスキップしたと考えられなくもないけども……

裕子の突然の消失は、実在の恋愛する人たちをギャラリー席で面白がってたらヤバいことが起きた、という寓話としてならよくできている。しかし、裕子が消えた後も学生たちは普通に人の恋愛話で笑い合っているので、切り替え早いなこの人らと思った。恋愛ゴシップの面白さは死をもってしても消滅させられない、ということなんだろうか。まあそうかもしれない。こんな映画を見ているのだから私も他人の恋愛ゴシップは好きだが、軽薄に茶々を入れるのは非実在青少年の間のことに限っておきたい気分がある。


たぶん、地方のほとんどの中学生にとっては身近な人間関係が世界の全てであり、もちろん娯楽もその中に見出されるしかないのだ。一人で遊ぶというのはそれだけで矛盾である。外形的には一人でスマートフォンを使っていても、どこかの友達、全く違う世界の異世代の人ではない、近くて親しい人と常に連絡をし合っている。そうでなければ人間失格も同然だった。

映画の感想サイトを見ていたら、「各々の好きになった理由があまり描かれないので共感できない」とあった。私の見るところ、中学生たちにそんな御大層な説明など無いと思う。たとえば裕子が「助手席に載せてくれたから好き」だと言ったこと、それは単に口をついただけで、じゃあ彼女は助手席に載せてくれたら誰でも好きになるかと言えば違うだろう。そんなことは正宗もわかっている。相手を性的に「いいな」と思うこと、「惹かれ」とも言われることは、たしかにある特定の人間について起こる。それを何か相手の要素に結びつけるのが上手い人もいればそうでない人もいる。あまり尊敬できなかったり気が合わなそうだと思う人にも性的な惹かれは起こりうる。そしてその惹かれは、当人にとっては割と切実なことだったりする。たとえ他人から見てめちゃくちゃ狭い世界で決まった相手へのそれであっても、しょうもないきっかけで説明されるものであっても。

だから「好きな気持ちは大嫌いって気持ちとすっげえ似てて」と言う正宗の所感は分かるような気もするが、正直もうそこまでの過激な手触りはあまり思い出せなくなっている。その場面は正宗の声をやった方の演技がとても良かった。


実質18禁映画

声の演技でいうと、なんか2分くらい続くキスシーンはマジで何を見せられているんだという気分になっていた。「やめたくない」って青年誌漫画とかでよくある性交シーンの台詞なんですが……*1。こんな実質18禁みたいな場面があるなら事前に言っといてほしい感がある。微妙な関係の人と見に行くと気まずいと思うのでおすすめしない。親族と見るのは二重三重に気まずいと思うので一層おすすめしない。ただこのシーンは二人が見つめ合って観客置いてきぼりなので、観客は傍から二人を見ている五実の感情と自然に重なっていくという指摘をwakさんとペシミさんという二人の方が話していて、なるほどと思った。一瞬めくったことのあるマイケル・フリード『没入と演劇性』などとも関わりそうなところだが、私には力不足なので他の方頼みます。


恋人ができた程度のことで反転してしまう世界観=「セカイ」

同じくwakさんとペシミさんの対話では、登場人物たち皆がエゴで(ほとんどは「色ボケ」、恋愛絡みの理由で)動いていて、世界の保全とか消滅とかそれ自体に興味ないのが良い、と言われていた。たしかにその通りだと思う。製鉄所再起動するとか、五実を奪い合うみたいな場面では、各々が「天気なんてどうなってもいいんだ」と叫び合っているような状況で混沌としている。恋人と一緒にいたいので(あるいは誰かに認めてほしいので)現行世界壊すのなんて許せない、という方向と、無辜の家族(五実)の一生を犠牲に捧げるくらいなら皆ゆっくり滅ぶのでいい、という方向と。

いちばん良識派っぽいクラスメイト(原陽菜)とか、割とまともにストーリー動かすのかと思えた叔父(時宗)等が、恋人ができたりかつての想い人とワンチャンしたいなと思ったりした途端にめちゃくちゃ世界維持に走ったのはちょっと驚く。でも人間そんなものかもしれない。こんな何もない場所はクソだと呪って毎日を過ごしていた人が、恋人が住んでいるからと結局地元に留まったり、あるいは逆に家が大好きで極度に出不精な人間が、突然活発になって恋人のいる遠方に毎週出かけていったりするのである(類似の話を知人から数え切れないほど聞いたし、かなり割り引いて考えれば私自身に当てはまる行動もある)。世界がこのまま続いてほしいとかぶっ壊れてもいいとか、この地域はクソであそこは良いとかいう信条は、ちょっと恋人ができたというだけで簡単にひっくり返る程度のことなのかもしれない。「恋人ができた程度のことで反転してしまう世界観」が「セカイ」と呼ばれてきたものであって、セカイは恋愛次第である。ウルトラ恋愛至上主義を地で行く人たちは、恋人との関係によって生活保守でもあるし、滅亡肯定者でもあるし、恋人の居所によって寒村も都市も礼賛しdisる。半径1メートルしか見えないし他は全部ノリで言ってる中学生マインドが物語の主要人物たちの基礎にあり、これには何か他人事ではないものを感じる。


恋愛の後始末について

 ただ彼らや私のような人間が恋人で豹変するのだとして、大体熱狂的な恋愛のエネルギーが続くのは一般に3ヶ月くらいだと言われていて、そこからは徐々に冷めていく。すると、なぜ自分はあんなに必死だったのかがわからなくなり、興醒めなものと狂おしいほど欲しいものは入れ替わる。具体的には、破局はまだしも離婚して子どもを引き取ったり押し付けたりすることになる。そういう経緯がたとえば睦実の境遇を作り、そして彼女もまた恋人にガッとなっているのを見ていると、ここにはなにか、直接教えていないのになぜか同じパターンが繰り返し現れる気味の悪さも感じる。(1991年で停止した側の)正宗と睦実が実際どこまで続くのだろうと妄想するのを私は止めることができない。周りの人たちの「セカイ」がああも急に変転しているのを見ていると、彼らについても逆方向も十分あるのではと思ってしまう。旧世代は無理だったとして、次世代のウルトラ恋愛至上主義者は3ヶ月を過ぎても関係を維持しようとする技術を習得し得るだろうか? 「恋人がいるこのセカイが続いてほしいんだ」という願いが「この息苦しい恋愛関係の外が見たい」という願いになったとき、ウルトラ恋愛至上主義者には、実際にセカイを壊し子どもを棄てる以外に何ができるか。旬を過ぎた恋愛の後始末をどうすべきか考えることができるのだろうか。

昔、シギサワカヤの『ファムファタル』という作品の最終3巻のあとがきを読んだら、紆余曲折の末ようやく恋人になる感じに至った大学生2人について「この二人一生安泰かと聞かれたら『いやあ……難しいと思うよー』と即答してしまうと思うのですが、それでも根性とか運とか諦めとかで頑張ってほしいなあと思います」と書いていて、フィクションで現実の一端を描こうとする人の凄味のようなものを感じたことがある。ある意味で夢を売る商売なんだから、前頁の結末に冷や水を浴びせるようなことは書かないだろう普通。しかし、この人(シギサワ)はおそらく離婚とか破局とかの凡庸さ、珍しくもなさを知っている人なのだ、と私は思った。結局こんなの夢物語だといった拗ねた諦めではなくて、物語の中の人物たちの日常と現行の社会通念を真剣に追ってきたからこその意見だと。シギサワは彼ら登場人物たちの凡庸さを追うことに原理主義的にこだわるから、あとがきにもそう書かざるを得ないのだ。著者に贔屓しすぎた受け取り方だろうか?


母と娘?

母と娘というフェミニズムの再ポピュラー化から重要性が増してきたテーマは、この作品にも読み取れなくはない気がする。しかし身体年齢が止まってるが精神年齢は不詳の睦実と、いろいろな意味で作品世界から浮いている五実という設定からして、特殊すぎて自分には近づけない。クラスメイトの男子と自分とが未来に結婚して生まれたらしい子どもがなぜか目の前に現れて、とりあえず世話をしろってどういう状況? いろいろと想像の域を超えているし、長期間にわたって五実の世話をしていた描写も駆け足なので気持ちがついてこない(この圧縮のし過ぎに苦言を呈していた人もいた)。唯一、自分で繕った着るもの(厚手のカーディガンみたいなやつ)を与えるというエピソードは、最初の露出もあって特別大事にされていた描写だった。この時代の人はおそらくまだユニクロのような既製品を買いまくるということはできなくて、自前で裁縫・編み物をして衣服を作ることも多かったのだろう(都市部でなければより顕著なはずだ)。親しい人に、その人の体を象ったものを自前で作ったり与えたりするという体験には多分何か特別なものがあると私は感じる。モノに媒介された親密性。

母と娘ですよというアピールは薄めだからか、作品の終盤にエディプス・コンプレックスを読み取るのもあまり適切ではないような気もしてきた。睦実(母親)は自分に専心してくれると五実が思ってたところに正宗(父親)が現れてさらっていく、という感じならそれっぽいが、どちらかというと五実に専心して(近親相姦っぽくなって)いたのは正宗のほうで、その正宗をさらっていくのは睦実だ。アイツは私のものなのでそこ間違えるな、と宣言するのは睦実なので、むしろ彼女がフロイトの理論でいう父親だ。すべての性別がねじれている。でもまあ自分のことだけ見てほしい相手が思い通りにならない、という苦い体験、去勢の体験を通過して子どもは自分の欲求をコントロールするようになっていく、そういう極限に簡素化された形の精神分析理論なら結局なんにでも、この作品にも当てはまってしまうのだが。だから何か新しいこと言えるのかというと別にそうでもない。

彼らの家系図が頭にあるとついエディプスと言ってしまうが、そもそも五実は1991年時点の二人が両親の過去の姿だとわかってて好きになったわけではない。まあ血筋はどうあれ実質育ての親だろと強弁することはできるが。失恋の話だと最後に明言されているので、睦実と五実はあくまで『true tears』の比呂美と乃絵に比されるべきだろうと思う。


五実

正直にいうと、五実というキャラクタの造形や周囲とのかかわり方はグロテスクだと私は感じる。私は『あの花』のめんま(本名を忘れた)とかもそうだが、こういうアニメの小児っぽいあどけなさみたいなのが昔から苦手である。きょうだいの小さい頃とかを思い出すからだろうか? どういう風にしてこのような存在と厭わずにコミュニケーションしたり、ひいては啓発などされることができるというのだろう。正宗などは五実の「匂い」(何の?)から何か生物のナマっぽさを体感しインスピレーションを得ているような場面があった気がした。まあ、そういうこともあるのかもしれないが、わざわざ幼少期のホモ・サピエンスを選んでそうする理由は何なのだろうか。よく知らない子どもからナマっぽさを感じるのってヤバくないすか(というか知ってる子どもなら猶更ヤバいけど)。マグロとかドジョウとかじゃダメなんですかね。私魚介類嫌いですが。

正宗と五実がじゃれていたとき、ドスの利いた声で「てめえもオスかよ」と殴りかかってくる睦実は普通に怖く、その怒りの向いていた先は色々考えられるが、幾分かはこの国の小児性愛文化にも向けられていたような気がする。まあ幼児を軟禁しといて最低限の語彙もセルフケアも教えてないという設定(生身の人間を使って狼少女を再現)の上でロリコンに怒ったとしても今更何をという感じだが……なんか論の運び方が「安全に痛いパフォーマンス批判」みたいな感じになってしまった。

しかしこの狼少女設定を趣味悪いなと思っただけで通り過ぎて良いものか。よく思い出そう。製鉄所の中心メンバーは、女児の世話をするのは男だと問題があるからと、睦実に五実の世話を押し付けたのだった。しかし中学生である睦実がまともに世話をできるはずもなく、結果はあの通りである。同性なら何とかなるとか、そんなことあるわけねえだろ。おそらく世話を押し付けたメンバーの誰も、子どもを育てるということが(私と同様に)よくわからなかった。1991年、イクメンという言葉すら存在しない。当時のいい年した男たちの中で、育児をまともにやったことがある人間はほとんどいなかった(同年の有業の男親で統計を取ってみると、1週間あたりの平均育児時間は多くても一日20分以下、年代によっては10分もなかったという*2)。五実の悲惨な状況は、女子中学生にアドバイスできる経験すら持たず、子どもを敬遠してばかりの男しかいない空間の無能さの結果と考えたらどうか。狼少女設定は、度を超えた諷刺と見えなくもない。


佐上衛

佐上衛というキャラクター、最初は狂言回しの側面が強くて没入を妨げるなあと思っていたが、彼もこの小さな町で誰かから褒められたり仲良くなってみたかった普通の人なのだと理解してくると、同情に近いものを感じるようになった。陰謀論でもスピリチュアル妄想話でも、もちろんオタク語りでも、それで熱心に話を聞いてくれて駄弁る口実ができると嬉しい。実際にセラピー文化というのはその嬉しさに伝播力を得ていると何処かで聞いたような聞かないような。

ただ佐上もその他大勢の寂しい人達と同様に、認めてくれれば誰でも良いというわけではない。自分が親しみを感じられる、顔のある、大事な人に認めてほしいのである。「昭宗氏が私のことを友だちと言っていたんですか」と何度も聞き返す佐上の様子から察するに、彼にとって大事な人とはかつての同僚・菊入昭宗のことだったのだろう。佐上はいちおう、昭宗とともに目指したセカイの維持に注力しているが、それの過程で何人かの有象無象にチヤホヤされても「なんか違う」と思っていたりもしたのでは。数人でも取り巻きができるとおかしな方向に進んでヤバい横暴に行く可能性もあったと思うのだが(オウム的な)、彼も彼の周囲もなんだかんだスケールがショボく、無事である。しきりに神とか言うけど、それが教祖になりたい野心というより何か卑小なパフォーマンスに見えてしまう感じ。夜神月MAD感と言えば伝わる人には伝わるだろうか。


その他

「神機狼」というまさに昔のスナックみたいな当て字の洒落を普通に用語として採用しているのはすごいと思う。そういう感性を昭和レトロと呼ぶのだろう。

正宗の絵にかける思いとか、それを知った父親が日記でどうコメントしてたかとは、視聴後すぐ忘れてしまったのであまり感想が出てこなかった。


人々の行動原理がシンプルなので全体的に引っかかりが少なかった。睦実がオートレストランで正宗から好きと言われたときに渋い顔をし、そのあと結局熱烈なアレになる流れは、昔(私が知っている限りで80年代のラブコメ作品)から割と定番となっているものだ。だからそれに対応するお約束の評言もあるのだと思うが、野暮なので別に言わなくていいだろう。その情緒はおそらく、ツンデレという概念が出てきて以来埋もれた感情の古層の一つではあったのだが。


*1 例えば、二宮ひかる『ハネムーン サラダ』2巻84ページ。

*2 国民生活白書(平成17年版)より。ただし、父子家庭も含んでいたのかなどははっきりしない。備考からするにおそらく含まれていない。私は自分が生きてもいない時代の想像された傾向を言っているのであって、もちろん父親が家事も育児もして一人前に育ててくれたという人の経験を蔑する気は一切ない。

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